六年前に「写実的珈琲主義」というコラムを書きました。改めて読み返すとなんとも恥ずかしい文章ですが、あの時感じたありのままです。文章のきっかけは福岡天神にあるイムズ。その8Fにある(三菱地所アルティアム)で「諏訪 敦 2011年以降 / 未完」という日本を代表する写実画家、諏訪 敦の個展が開催され、見に行き衝撃を受けた事から書き上げた文章でした。
去年暮れから今年の二月(2022年12/17~2023年2/26)にかけ府中市美術館で行われた個展「眼窩裏の火事」はコロナ禍を挟んでしまった故、国内の(大きな)個展として実に福岡以来でした。実物に触れた2017年の衝撃以来、すっかり諏訪敦の大ファンになってしまった私は1月31日、府中市へと旅に出ました。美術館という空間で見る圧倒的な展示に息を呑み、その情報量に脳の処理が追いつきません。冷静に咀嚼出来始めたのは三周目。福岡でも展示のあった《棄民》シリーズや「水を注ぎ、満し、冷やす」から脳を展開していきました。
今回のコラムは諏訪氏の描く絵の解説などはしません。というより私如きには出来ません。好き勝手思った事、感じた事を書こうと思います。冒頭や文中で興味を持たれた方は是非「諏訪敦」で検索してみて下さい。
六年前といえば、焙煎機を変え納得のいく咖啡探求の為、日々頭を悩ませる毎日でした。そのタイミングで見に行けた個展は私の咖啡焙煎に救いを頂けました。当時のコラムに「そして私の求める「写実的珈琲」とは【特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。】だと今は考えています」と書いています。これは今でも変わりありません。しかし今回、諏訪敦の描く写実世界は写実では無いと感じてしまったのです。前回の重複になりますが、私の思う写実と、世間一般に認識されている写実に誤差があるように思えます。一般的に思われている写実画は実物をまるで写真の様にキャンバスに映し取る行為又は技術かと思います。
(2023/05)
が、決して私の好きな絵にはならない。それなら写真でいいのです。そうではない「写実」とはなにか。「写真」は真を写すと書きますが、「写実」は実を写すと書きます。
諏訪の描く人物は、モデルの取材を徹底して行う事で有名です。画家として有り得ない量の情報を収集した後に内側から描き始める。今回見た《棄民》シリーズはハルビンの収容所で栄養失調と発疹チフスに病没した横たわる祖母を描き上げたものですが、横たわる傷のない裸像に筆を加えていき、肉体が朽ちていく様を同一キャンバスに表現されていった作品。まさに現代の「九相図」。しかし何枚にも同じ構図「九相図」の様に変化を表すものではなく、筆を重ねる。徹底取材を行う諏訪らしい作品といえます。重ねてしまった像は二度と現れない。朽ちる前の肉体は朽ちていく肉体に置き換えられていく。目に見える形で描くしかないから出来上がった絵は「そのように」見える。しかし中から描くと写真の様には絶対ならない。それが諏訪敦の、私が魅了される絵の秘密ではなかろうかと?
心を描くことは不可能。しかし精神と魂は肉体を媒体としその本質を現界に表現する。それは知恵であったり技術であったり、それまでに過ごした経験を脳でフィルターとし、神経伝達された電気信号は皮膚を通し表現として形成される。つまり逆算的に言うとその形成された状態を写す為には精神や心を知らなければ決して描けない…… なんともどかしく、孤独な作業だろうか。本人をいくら調べても最後には自分也に咀嚼した状態を絵筆を通しアウトプットしなければならない。しかも表層のみを。この事に気がついた時、ぎゅっと心を鷲掴みにされる感覚を覚えました。
諏訪は近年「閃輝暗点(せんきあんてん)」に悩まされているそうです。この病状は目を酷使した時、モチーフを凝視しキャンバスを熟視目を酷使すると血流異常によって視覚像が引き起こされるというものです。
(2023/06)
諏訪の描くキャンバスにはオーロラのような揺らめきや光点が描かれているものがあります。これが閃輝暗点の症状を写し取ったもの。その瞬間や煌めきは見ている諏訪敦にしか見えないもので、勿論現実には存在しない現象です。この症状が起こると焦点が結べず観察することが出来なくなり、偏頭痛が伴い小一時間ほど続くそうです。頭痛を伴わない閃輝暗点の場合、脳梗塞や脳腫瘍といった重篤な疾患や身体に何らかの異変が隠れている可能性があるそうですが、偏頭痛があるという諏訪の場合、その心配はないのでしょうか?不安です。(コーヒーが偏頭痛を和らげる効果があるらしいですよ)
しかし苦しみを伴うその光がキャンバスに描かれているものはとても美しい。諏訪の言葉を借りるなら「その苦しみとビジョンは真正に自分だけの経験であり、誰もが自分の体に閉じ込められている事実に思いを馳せる時間でもある」と。
閃輝暗点が描かれている絵はほぼ静物画。凝視することでしか分かり合えぬ対象だからか、当然ながら目を酷使する。しかしその静物画に現れる事象は瞬間、諏訪敦だけのものであるが描かれることによって現在可能となる。精密に描かれた、まるでそこにあるような静物画に存在ある筈のない煌めきは、(誰もが自分の体に閉じ込められている事実)とリンクする事により、二次元の枠では収まらなくなるのである。そこに存在するのは永遠不滅の瞬間を閉じ込めた時間軸。次元を超えたその時間軸に触れた瞬間、感動を与えるのである。
私は諏訪の描く絵がタイムプラスで撮った動画のようにジワリと動いて見える。何故か揺らめきを感じる。静物画などのシャドウにメタリックが使われ、絵を照らすライトに見る角度が変わるたびキラキラと動く。技法の問題か? いや違う。静物画はあくまで静物画。生きのいい豆腐が動き回る世界なら兎も角、豆腐は決して動かない。ああそうか、その瞬間だけでなく、描き始めて描き終わるまでの時間(光)が閉じ込められているから動いてるんだ。と。
(2023/07)
「映像記憶ってあるでしょう。一目見ただけで情報を詳細に再現できてしまうという。デッサンは普通、ざっくりと構図をとって大まかに陰影を分けてから、細部を詰めていくんですけど、その頃の僕は一定の時間観察すると、スキャンした画像を出力するみたいに上から順にガーッと描くことが出来ました(でもこれは最初から絵が上手かった、という話ではないですよ)」(絵にしかできない 諏訪敦+大谷昭子 カタリココ文庫)
諏訪は生まれながらにして「描く」というギフトが与えられた人であろう。人は皆、ギフトを大なり小なり持って生まれるが、開け方が分からなかったり、開けてもらえるチャンスがなかったり、知らないまま過ぎていく人が多いのではなかろうか。溢れ出てしまった人が自然と始める行為がギフトであり、そこに横たわる最大の問題は事を続けられるかどうかである。
韓国、ソウルで行われた日本人カメラマンの写真展、2001,07/12/12thu~07/17tue SHINSEKAI PHOTOEXHIBITION 2nd IN SEOUL DMの表紙を飾った早田均の写真は当時の私に(見る目)を与えて下さった大切な作品の一つです。一枚に納められた石の写真は六面、その写真の一部は残像が残こっている。写真も絵と同様、元は三次元に存在するものを二次元に閉じ込めてしまうが故に三次元の特徴である(時間)が欠落してしまう。しかしこの作品は三次元に存在する全ての角度をと石の連続する流れ(作品自体の制作方法はカメラを使ったものではなく、スキャナーで入力時間を調整しながら立体物を取り込んだ)が折り込まれる事により、二次元の中に時間軸を取り込み、表現することで三次元の奥行きが生まれる。この作品の意味を早田本人から教えて頂いた時、そんな表現方法があるのか! と心がギャッと悲鳴を上げた。この作品以降、私の写真や絵を見る目が心豊かに変わった。表現者はその永遠たる瞬間をフィルムなりキャンバスに閉じ込めることが出来る。しかし不変的に変わらぬそれは良くも悪くも変化しないのである。進化でも退化でも変化するという事は時間という恩恵を受けた者のみに与えられ、それは尊く美しい。
(2023/08)
例えば心震わす音楽に出会う。CDを買い、繰り返し繰り返し聴き続ける。その度音源は全く同じ音を流し続けるが、聴き続ければやがて飽きていく。それは聞いている側に変化が訪れるからであり、音源に変化は無い。
諏訪の作品「Sphinx」「Mimesis」は連続する動きが残像のように形を残し、一つの像を成している。時間軸を閉じ込めているように思えるが、それだけではない気がする。
男女が絡み合う情景の「Sphinx」。何故にスフィンクスという想像上の動物がタイトルになっているのか? フェキオン山に住むスフィンクスの有名な逸話「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。 この生き物は何か?」というなぞなぞ。戯曲「オイディプス王」でなぞかけされたオイディプスが答えたのは(人間)。紀元前427年に古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人ソポクレースによって書かれた戯曲は現代でも語り継がれている。形を留めたまま、作者の天命をはるかに超えた時間を語り継がれると云うのはまさに芸術であり、人間の行う戯曲という形の伝承と文化の素晴らしさであろう。そこに絵画の入り込む余地は有るのか? クリアする為の条件を「Sphinx」には感じる。二人の男女(人間)が重なり合い残影を残しながら(時間軸)子孫に繋いでいく行為(未来に向かうまだ見ぬ時間)が描かれたキャンバスは新たなる次元空間(モデルがいるならマルチバースが生まれた瞬間とも言える)を生み出し閉じ込めてしまっているのではないか。我々(オイディプス)に問われた諏訪(スフィンクス)からの謎かけに思えてならない。
蛇足になるかもしれないが、タロットの(運命の輪)「運命対自由意志」を提示している(Wheel of Fortune)。その輪は周期性・永続性の象徴とされ、そこに描かれる想像上の動物スフィンクス。カードの意味は正位置だと(転換点、幸運の到来、チャンス、変化、結果、出会い、解決、定められた運命、結束。)逆位置は(情勢の急激な悪化、別れ、すれ違い、降格、アクシデントの到来、解放。)意味やシンボルを読み解き理解するとその奥行きはグッと広がる。ただそこに有るモノを綺麗に映し取ったりする行為とはそもそも土俵が違うのだ。
(2023/09)
見るというインプットから描くというアウトプット。今回の展示で私は考えをアップデートを余儀なくされた。先ずは「見る・見える」という行為。皆さんも経験があるかと思うが、美しい満月に出会った時、その感動を誰かに伝えたくてスマホで姿を収め確認するとがっかりした事はないだろうか。そこに収められたのは見た目よりも小さな月。あんなに大きな満月もレンズ越しには小さく残念な姿に……
ルネサンス期に技法が確立された平面上に3次元空間を表現する手法「線遠近法(透視図法)」があります。線遠近法は、あらゆる遠近法の中で最も科学的に体系化された空間表現法の一つです。例えば、遠方の水平線に向けて真っすぐ延びる一本道の両側の輪郭線を、水平線上の一点(消失点)に向けて収束させるように描く手法が線遠近法です。地平線へと延びる線路。線路の先が消失点といえば分かりやすいでしょうか。
英カーディフ・メトロポリタン大学(CMU)の研究チーム主任のロバート・ペペレル氏は「しかし、人間の視覚は実際にはそのように機能していない」と指摘します。
私たちの両目は湾曲した網膜に光を投射しており、その視野はカメラやコンピューターの画面よりはるかに広いという。また焦点の中心にある物体(先の例の満月など)は、脳が周辺視野にある物体よりも強く注意を向けているため、写真で見るよりも大きく感じられるからなのです。
そこで研究チームは人間の目や脳が風景を知覚する方法「自然遠近法(natural perspective)」を模倣した数学モデルを使い、デジタル上の画像を肉眼に近い印象に補正するソフトウェアを開発。被験者にターゲットボールの距離感を評価してもらいました。従来の線遠近法では遠くにある見たい対象は当然ながら小さくなってしまいます。肉眼に近いモデルの自然遠近法での見たい対象は実際の距離よりも大きく感じるので、見え方は自然。サイズが異なって見えるという印象の問題が再現出来るのです。
(2023/10)
ひょっとすると、3Dゴーグルをかけた時の酔いはこれに寄与するのかも知れません。実際見ている対象以外の周りはボケて、対象を大きく見ているのです。分かりやすい例えは魚眼レンズでしょう。
魚眼レンズは焦点距離が短く約180度の広い範囲を撮影することができる超広角なレンズです。名前の由来は水中から上空を見上げた時に水の屈折で空がゆがんで見える魚目線の見え方からきています。約180度という範囲を一枚の写真に収めるため写真の周辺は映像がゆがみ「樽型収差」といわれる歪曲が現れ独特の画像になります。しかしそのまま映し出しているため中心部分に映し出される被写体と周辺部分に映し出される被写体の大きさの比率が実際に見た比率に近い映像となります。魚眼レンズで映し出された写真の外側は大きく歪んでいるのは、レンズ自体はあくまで超広角の範囲をそのまま映し出そうとするレンズである為、湾曲された画は補正されずイメージセンサー(撮像素子)が受け取る為に歪んでしまうのです。
歪みが補正され、焦点が拡大され、集中するものに対して以外の解像度が下がる。私達が日常で何気なく見ているモノはこのように処理されているのです。
これらの事から見えてくる(写真のような写実絵画)に違和感が出てくるのは、リアリティ追求故にリアリティが欠けていくという事ではないか? と思うようになるのです。前回のコラムでも書きましたが、私は職業柄、つい手を見てしまいます。人の手が動く所作に自然と目がいきます。最近、SNSで注目を浴びている写実画家の絵が私には如何しても好きになれません。写真のように正確に描かれた絵に(凄い)とコメントの嵐。こんなふうに描けるのは確かに凄い技術で、何時間も掛けて習得した努力の結果というのは分かるのですが、いかんせん(手)が不自然。人物を描くときに手は殆どの場合手前に描かれるかと思います。やや大きく描かれているその手のリアルさが違和感に感じるのです。では、諏訪の描く手はどうか?これが不思議と違和感なく自然にあるのです。
(2023/11)
先の画家は多分、自分の描く全てに注目してもらいたいのではないでしょうか。つまり、本人が無意識に全体にピントを合わせてしまっているから生まれる違和感なのかもと考えています。諏訪の絵は、見てほしいポイントが有って、焦点のディテールとそうでない部分を解像度を若干、本当に若干ですが変え描いているのでは。故に架空の状態描写でも自然体が描かれリアリティーを生み出す。その視覚的リアリティーが写実画家と言われる所以ではなかろうかと。
カールツァイスジャパンに40年勤める田中亨さんのインタビューに大変興味深い話がありました。『これは顕微鏡の例ですが、長時間観察していると、レンズのコントラストが高いだけではだめなのです。解像力とコントラストのバランスが大事です。コントラストだけを高めたレンズを持つ顕微鏡は、一見高性能で好印象を与えるのですが、長く使っているうちに「実は細部がそこまで見えていない」といったことに気づくケースがあります。ツァイスの顕微鏡を使う方の言葉で印象的だったのは、「“自分の眼がそのまま倍率を上げていったら、こう見えるんだろうな”というぐらい何も誇張されず、何も引かれずに見える」というものです。これは写真レンズも同様で、目で見た印象から何の誇張もなく、クリアでスッキリした写りが得られると言われます』
解像度とコントラストのバランス。リアルな人間を造形した場合訪れるという(不気味の谷)。不気味の谷とは、1970年に東京工業大学の森 政弘教授(当時)が書いたエッセイのタイトル。 大意は「人間は、ロボットの外見や動きが人間に近くなるほどロボットへの親愛度が高まるが、類似度があるレベルになると逆に不気味に感じる。しかし、類似度がさらに高まると親愛度は最大になる」というもの。そこから解釈すれば、写真のような写実からくる違和感は解像度とコントラストのバランス、目で見た印象からの誇張から受ける印象なのだ。
(2023/12)
息遣いを感じるようなリアリティを表現する事はトンデモなく難しい。諏訪敦の描く世界には其処に『ソレ』が存在している。見ていると肌に触れるレースの感触や木のテーブルを指でなぞった質感、冷えた花瓶に触れた瞬間、箪笥から出した着物少し埃っぽい匂い。そんな日常に潜む感触を思い起こさせる。見る人が味わった事のある深層中のリアリズムに触れてくる画家。写実画家と括ってしまえるのだろうか? それでも無理矢理ジャンル分けするならば(実に気に食わないが)写実画家なのだろう。
今回、私の様なド素人がえらそう日本を代表する画家(諏訪敦)について、諏訪さん大好き! を好き放題ぶつけてしまったのですが、画家の考え方や見え方など所詮は憶測でしかなく、もし本人からクレームが来ても謝るしか無いのですが、憶測ついでに今回展示のテーマについて語り終わりにしたいと思います。それは(今、愛しているもの。かつて愛を受けたもの。存在)かと考えました。それらは今回の展示や図録に多く見られます。図録「眼窩裏の火事」、一番最初に飛び込んでくる「曼珠沙華」、そこから「依代」へと続く訳ですが、《棄民》シリーズの冒頭が白い曼珠沙華なのには一つ仮説が思い付きます。それは諏訪氏のメッセージ。曼珠沙華の花言葉は「またあう日を楽しみに」「想うはあなたひとり」。
府中美術館で最初に飛び込んでくるのは病室のベッドに横たわる実父を描いた「father」それから死顔をスケッチした「gaze」、父や幼少期の自身に似ていると驚いたという長男の寝顔を描いた「こども」、そこから《棄民》へと移ります。自分の生い立ちを自身を中心に自分が生まれる遥か過去から取材を通じ描き、「依代」へと。その最後に「曼珠沙華」が現れます。曼珠沙華の花言葉「またあう日を楽しみに」は《棄民》のモデルである祖母に対するメッセージに思えます。もし、死後の世界があり再び相まみえるなら、現世で過ごした日々を貴女が居たから私が存在していたと細かく語り尽くしたいという思い。
(2024/1)
となるともう一つの意味「想うはあなたひとり」は図録と展示の順番が変わる事でもう一つの意味を持つと考えました。冒頭に来ることで、とある日本画作品「優しくされているという証拠をなるべく長時間にわたって要求する」に対する回答または返信、愛の言葉ではないかと。「九相図」「浄相の持続」とは別のアプローチで、下地にある朽ちていない身体を絵の具を重ね朽ちさせていく。その場の時間どころか、時間の経過までをもキャンバスに閉じ込めてしまう。図録で冒頭からこれをやられると府中美術館との展示順番の違いや意味合いを妄想すると、もう叫ぶ以外ありません(笑)
会場の順序も図録も静物画へと移ります。高橋由一の「豆腐」へのオマージュとも取れる作品から入り、閃輝暗点と共にある現在へ。静物画を過ぎると第3章(わたしたちはふたたびであう)というタイトルと共に人物画に移ります。人が人として形を成していくには出会いがなければなりません。出会う事で、(人でも物でも)対象と向き合いキャンバスに描く事で画家は形を成していきます。これは画家だけでなく、咖啡を生業とする私や皆様にも当てはまる事でしょう。絵の向こう側から投げかけられる視線を受け止め、佇み、自己と対話する。まるで第1章「棄民」は内因、第2章「静物画について」は外因、第3章「わたしたちはふたたびであう」は心因を問われているように感じました。図録「眼窩裏の火事」は府中市美術館で行われた個展と見事にリンクし、図録を開く度に時空を超え、会場へ(ストン)と佇む事が出来るのです。
(2024/1)
府中美術館の個展から1年。ふと素晴らしく整えられたテーマと作品に出逢いたいと図録を開き、あの時の空気を思い返すのですが、図録最後の「Sphinx」には毎回溜息で終わります。会場には展示されなかった作品ですが同時期に成山画廊で展示されていました。美術館の帰り、九段下まで移動し、武道館と靖国神社を横目に参りました。小さなスペースに放たれる圧倒的な存在感「Sphinx」。あの時の感覚があの日の記憶を固定してくれたのだなと思っています。絵を見ながら、もう一度自分のコラム(写実的咖啡主義)を補完、改訂しなくてはと思い書き綴りました。少しでもいいから、3次元+時間=4次元以上の高次元に感覚や精神性が触れる事は出来ないものかと展示をきっかけに考えるようになりました。それこそ受肉した今を捨てるまで不可能なのかも知れませんが、その答えは2次元に閉じ込められた何かを今回のように展開することにヒントがあるように思っています。