当店でお配りしている毎月のご案内。そこに掲載しているコラム「mon a…mon amour」
その中でも長期連載だったのがコチラ「中東の十字路」です。連載期間(2013年2月から2015年3月)はなんと2年と1ヶ月。アラブの春が起き、内戦に突入したシリア。シリアは思い入れが強く、いつかは行ってみたい、そしてトルココーヒーの歴史を調べる旅に出たいと思っており、なんとなくではありますが準備をしていました。そんな矢先での内戦突入に渡航の夢途切れました。その恨みつらみをつらつらと書き綴ったのがコチラです。
中東の十字路、シリア。
実はシリアに行って調べてみたいことがありました。シリアは古代ローマ帝国時代にローマ領でした。そのときにしっかりとローマ街道が整備され、死海と紅海を結ぶアカバ湾の麓、アカバから現トルコであるアンタクヤ(旧アンティオキア)までの道のりはローマが整備しています。勿論紀元前の話。其の道のりはアンマンやエルサレム、ベイルート、ダマスカス、タルトゥースと現在の主要都市を結ぶ道のりでした。当然、サウジアラビアの南、イエメンの珈琲が北に向けて通った道のりになるでしょう。そしてイエメンを支配したトルコもこの道を通った事は間違いないでしょう。
現在、イエメンで飲まれている珈琲は珈琲の外皮を煮出して作る(ギシルコーヒー)と我々が飲み親しむ珈琲の種子を焙煎した「珈琲豆」を挽いて飲む(ブン)があります。イエメンで(ブン)を飲もうと思うとフィルターで濾すタイプの珈琲は出てきません。トルコ式の煮出して作る珈琲が出てきます。これらは占領下にあった時のトルコの置き土産でもありました。
当然、サウジアラビアより北はトルコ式の珈琲が飲まれています。アカバから北のアンタクヤまでの道のりを珈琲器具や抽出法の違いなどを見て回りたい、フィールドワークにしたいと思っておりました。
中東のいろいろな文化、人々が交差する国、シリア。その十字路は東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きで、北部ではトルコと、東部ではイラクと、南部ではヨルダンと、西部ではパレスチナやレバノンとそれぞれ国境を接し、北西は東地中海に面する国です。
今現在(2013年1月)、シリアは騒乱状態にあります。シリア騒乱(シリアそうらん)は、2011年1月26日よりシリアで続いている反政府運動のことで、国際連合などにより事実上の内戦状態と認識されています。古くから様々な人種が行き交い、国際航路の中継点になっていったのは地形を見れば納得するかと思います。
(2013年2月)
日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア <Syria> (日本でのシリア表記は公式英語表記からによるもの)
「シリア」という言葉は、現在の国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。
正式名称は、アラビア語読みはアル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ(ラテン文字転写 Al Jumhuriyah al Arabiyah as Suriyah)通称 Suriyah。公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・レパブリック)首都はダマスカス。第2の都市は石鹸でおなじみアレッポ。かつて、ローマ帝国にはシリア出身の皇帝がいました。皇帝フィリップス・アラブス(在位、紀元244年~249年)アラブスは「アラビア人」の意味。シリア南西にある小さな町「シャハバ」。ダマスカスの南南東約75km田舎町ではあるが多くのローマ遺跡が発掘されている場所があります。ここがフィリップス・アラブスの生まれ故郷とされています。
生家はこの地方に住むアラブの豪族に属しましたが、上昇意欲に燃えていたアラブの若者はローマ軍で自らの将来を切り開く道を選びました。
当時、地中海とユーフラテス河の間に広がるシリア砂漠は、アラビア馬を駆ってキャラバンを襲うベドウィンの天下。砂漠にもパクス(平和)を確立することに執着したローマ帝国は、これら砂漠の盗賊団を補助部隊にしてローマ軍内に吸収。シリア砂漠の中央に位置するパルミラの反繁栄がローマ時代になって頂点に達したのも、砂漠でも「パクスロマーナ(ローマの平和)」が確立したからでありました。そしてローマ軍に吸収されたベドウィン族は、この200年の間に流浪の民から定住民に変わっていった。故に皇帝フィリップスにはベドウィンの血が流れているとの噂もあながち根拠のないことではなかったのです。
この皇帝フィリップスはローマ建国一千年を記念する祝祭を主催。(ロムルスによるローマ建国は紀元前753年とされているので紀元後248年のその年は建国一千年にあたる)しかしこの皇帝は不運の皇帝でもありました。
(2013年3月)
たった5年の在位は皇帝不在のローマを避けるべくしての在位でありました。なにせ彼の資料が少ない。なぜならば次期皇帝デキウスとの内戦により捕らわれるより自死を選んだため、帝国の公式記録より名も業績も抹殺される「記録抹殺系」によるもの。・・・古代ローマは都合の悪い歴史は「無かったこと」にしてしまうのが通例でした。
ローマ帝国とシリアとの歴史は古く、紀元前49年1月~前44年3月、ユリウス・カエサルはエジプトのアレクサンドリアからパレスチナ地方のプトレマイオス・アケ(現イスラエルのアッコン)まで海路をとりユダヤ、シリアを訪れています。
アッコンからは陸路を北上してシリア・パレスチナ地方のアンティオキアへも視察に訪れています。
紀元前21年頃。現代では、トルコの南東にシリアとレバノンを合わせてようやくローマ時代の一属州シリアになるこの地方は当時大国パルティアと境を接していました。属州シリアの真の特色は、境を接するパルティア王国が、強力な敵であるとともに強力な通商のパートナーでもありました。隊商路を考慮してライン上の諸都市の振興策は初代ローマ皇帝アウグストゥスの時代にまずパルミラとダマスカスに集中。
ここでの振興策とは属州シリアの特色を生かし、軍団駐屯地の整備と砂漠のオアシスから始まったこの地に安全を保障するべく日常生活を快適に遅れるようにと数多の公共施設の充実。斯くしてレバノンの山岳地帯にもローマ文明が浸透していったのです。これにより街道網がアンティオキア=パルミラ、パルミラ=ダマスカス、ダマスカス=ベイルート、ベイルート=アンティオキア、バールベク=ダマスカスと整備されていきました。
アンティオキは現在のトルコの南。ローマ街道はこの時代にすでに北はトルコから南はアラビア(サウジアラビアの方角)まで整備されていったのです。
(2013年4月)
中東の十字路を語るには地理を頭に思い描く必要があります。シリアは東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部ではトルコ、東部ではイラク、南部ではヨルダン、西部ではパレスチナやレバノンとそれぞれ国境を接しています。
国土の内、西部、地中海沿岸部には平野。南部は肥沃な土地が広がり、国内農業のほとんどを負担しています。
北部は半乾燥地帯、中部はチレバノン山脈が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。国内最高峰はハーモン山(2,814m)。国土を北から南にユーフラテス川が、南から北にオロンテス川が流れています。
気候は地中海沿岸部は典型的な地中海性気候(Cs)で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり(BS)、イラク国境周辺は砂漠気候(BW)となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られるなど季節毎の差が激しい。ダマスカスの年平均気温は5.8℃(1月)、26.5℃(7月)、年降水量は158.5mm。この土地勘は頭に入れた上で話を続けます。
ローマ街道が紀元前に整備され、人々が流れます。現在の言語、人種、宗教状況ですが、住民は、アラブ人が90%で、その他にクルド人、アルメニア人などがいます。アラブ人の中にはシリア語を母国語とする部族もいるため民族性も多様化。少数民族としてネストリウス派(アッシリア人)、北コーカサス系民族、南トルコ系民族もいます。
言語はアラビア語が公用語。その他にもシリア語、クルド語、アルメニア語が使われます。 少数ですが、フランス語も使われているようです。
<宗教>
イスラム(スンナ派) 74%
イスラム(アラウィー派) 16%
キリスト(東方正教会) 10%
宗教は、イスラム教スンナ派が74%、他のイスラム教の宗派(アラウィー派など)が16%、キリスト教(非カルケドン派のシリア正教会、東方正教会のアンティオキア総主教庁、マロン派の東方典礼カトリック教会など)が10%である。
(2013年5月)
前回の宗教は現在のものですが、この状態になるまでには歴史的道のりと並走します。現在の地図でシリアはなんとなく国境がありますが、実際のところ未解決の領土問題ではイスラエルとシリアの間は国境が封鎖されていますし、シリアとレバノンはイスラエルに行ったことがある人には入国許可がおりません。
そもそも中東は曖昧な国境でしたが、現在のヨルダン、シリア、レバノン、イスラエル(パレスチナを含む)にまたがる地域は古くから「シリア(アラビア語でシャーム)」と呼ばれ、第1次対戦前までは大まかにこれらの地域が「シリア」でした。現在の「シリア・アラブ共和国」と区別するために第一次対戦前までを「大シリア」と呼ぶことが主流なので区別して書いて行くことにします。
大シリアは世界4大文明のふたつ、エジプトとメソポタミアのちょうど中間に挟まれ、この2大文明とその周辺にはオリエントと呼ばれる一大文化圏が誕生しました。このオリエントと呼ばれるエリアで古くから活躍していたのがセム系民族でした。セム系民族の祖先は古くからアラビア半島に住んでいたとされています。(セム系民族のセムとは、一説によると旧約聖書創世記に出てくるノアの箱舟に由来しているといわれています。ノアの長男がセムでその子孫がセム族という説です。現在では言語学上の意味で用いられて、アラビア語、ヘブライ語、アラム(シリア)語、カナン語、アッカド語は基本単語が驚く程よく似ているためにこれらの言語のどれかを話す人をセム系民族と呼んでいます。)この大シリアに住み着いた最初のセム系民族はアムル人とカナン人であり、紀元前3500年頃から遊牧生活をしながらアラビア半島から北上、アムル人は中央シリアからメソポタミアに、カナン人はシリア中部、地中海沿岸地域に定住しました。アムル人は前1800年頃、バビロンを中心としてバビロン第一王朝(古バビロニア王国)を樹立。一方カナン人は前3000年頃に地中海沿岸に多くの地方国家を建設。トリポリ、ビブロス、ベイルート、シドン、ティールや、内陸部にはエルサレム、エリコなどを建設。やがて独立し栄えて行くが政治的に統一されることはありませんでした。
(2013年6月)
特に海上貿易はおおいに繁栄、同じ海洋民族であるギリシャ人はこのカナン人のことをフェニキア人と呼ぶようになりました。フェニキア人は前1200年頃 にめざましく活躍。クレタやエジプトが衰え始めた後の地中海貿易を独占。カルタゴ(現チュニジア)をはじめ多くの植民都市を建てました。この頃、貿易の必要上、主にエジプトの象形文字を簡略化してフェニキア文字を作りました。後に文字はギリシャに伝えられ、アルファベットの起源になりました。実はアルファベットの起源はシリアにあったのです。
前1500年頃にはやはりアラビア半島からアラム人が北上、レバノン山脈以東に住み着くようになりました。やがて人口が増え、アムル人、フルリ人、ヒッタイト人などを吸収してダマスカスに入って行きます。前13世紀末までにシリア各地を支配、前11世紀末にはベン・ハダト王朝を建設。ダマスカスを中心に陸上貿易を独占。フェニキアの特産品をラクダを用いた隊商を各地に送り込みました。この商業活動に伴いアラム語が広まり、アラビア人が登場するまで広い範囲で使われていたようです。(現在でもいくつかの村ではアラム語が残っているそうです)
同じ頃、大シリア西南部パレスチナにはセム系民族ヘブライ人(自らをイスラエル人と称していた)が定着。パレスチナの地は長くエジプトの支配を受け、海上貿易や隊商交易の中心地として栄えた特別な場所でした。
前11世紀になるとイスラエル人の王国が建設。2代目ダビデ王のころにエルサレムを首都としたヤハウェの神殿を建てました。ダビデの子、ソロモン王の頃には王宮や神殿が建てられ繁栄を極めました。その後ソロモンは没落(在位前961~前922年)、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。イスラエル王国はアッシリア帝国に前721年に滅ぼされ、ユダ王国はアッシリアに代わった新バビロニア王国に破壊されます。この時、新バビロニア王国のネブカドネザル王はユダ王国5万人をバビロンに強制移住、「バビロン捕囚(前586年)」が起こります。やがて彼らは自治を認められ、農耕や通商、学芸、労働に従事します。
(2013年7月)
当時、新バビロニアの首都バビロンは世界最大の都市となっていました。繁栄が続く中、道徳は退廃。捕囚生活を送っていたパレスチナの人々はユダ部族で結束。やがてユダヤ人と呼ばれるようになりました。前538年、ペルシャのキュロス2世(アケメネス朝ペルシャ)が新バビロニア王国を滅ぼすと、捕囚となっていたユダヤ人達が解放されます。彼らは帰国し、エルサレムにヤハウェ神殿を再建。ペルシャ支配下の元、ユダヤ教を確立しました。このユダヤ大国は70年にローマに滅ぼされ、その後ユダヤ人の多くはディアスポラ(離散の民)となり世界に散らばりました。
フェニキア人やアラム人など諸民族が活動している間にチグリス川上流ではセム語族アッシリア人が次第に勢力を伸ばし始めました。彼らは鉄製の武器と騎馬隊を使いシリアの各都市とイスラエル王国を征服。前671年にはエジプトを含むアッシリア大帝国を建設、始めてオリエントを支配下にしました。しかし、方法が不味かった。他民族を武力で抑えた結果、民衆の反抗を招き、前612年に滅びました。オリエントは新バビロニア、エジプト、メジア、リジアの4国が誕生。4国分立時代に入ります。
シリアはアラム人が建てた新バビロニア帝国(前625年~前538年)の支配下でした。新バビロニアはバビロニアからシリアに至る肥沃な三日月地帯を支配、首都バビロンは隣国イランの影響もあり西アジアの政治、経済、文化の中心地となりました。その後、全6世紀の中頃に、インド・ヨーロッパ語族のペルシャ人(イラン民族)がアケメネス朝のもとにメジアから独立、4国を征服。前525年にはエジプトを滅ぼして全オリエントを統一しました。統一は約200年間維持。ペルシャ人は楔形文字を表音文字化したペルシャ語を作り、素晴らしい建築物や彫刻を残しています。約2000年に渡り西アジア史の主流をなしてきたセム系民族に代わってイラン民族が多数の異民族を支配。初めて西アジア世界が独立することになります。
(2013年8月)
アケメネス朝ペルシャは前330年、ダレイオス3世の頃にアレキサンダー率いるギリシャ・マケドニアの遠征軍によって滅ぼされてしまいます。アレキサンダー大王は西はギリシャ、東はインダス川流域まで大帝国を築き上げました。
その後、シリアはギリシャの支配下となります。ギリシャ支配は僅か20年ですが、アレキサンダー 大王が西アジアからオリエントに与えた影響は大きいものでした。各地の重要な地点にはアレキサンドリアという名前の都市を建設、ギリシャ人を住まわせました。そして各地を結ぶ陸路、海路、交通、運河を整備。物資の流通を開始、通過を統一しました。アレキサンダー大王自らもダレイオス3世の娘を妻とし、マケドニアの貴族や将校約1万人をペルシャ人と結婚させました。これらはギリシャ文化の東方への普及を促し、王の東西文化融合の試みと共に新しい文化が生まれました。「ヘレニズム(ギリシャ風)文化」の誕生です。この影響はインドのガンダーラ美術や中国の六朝文化、日本では飛鳥時代の芸術の中に見られます。王は何故ギリシャとペルシャ両世界の融合を進めたか?それは、西アジア文明があまりに偉大で華麗だったから。
アレキサンダー大王はアケメネス朝ペルシャの体制をできるだけ受け継ぎ、発展させようとしました。しかし、王の死後、帝国は崩壊。3国に分裂します。マケドニア、アンチゴノス朝。エジプトを中心とするプトレマイオス朝。そしてシリアとイランを中心とするセレウコス朝(前312年~前63年)です。
セレウコス朝(シリア王国)は西アジアの殆どを支配。占領政策を敷きました。アレキサンダー大王の統治方法を受け継ぎ、都市設計計画は活発に続けられました。この時のシリア大国の首都はアンティオキア(現アンタクヤ…現在はトルコ領でトルコの南のある都市)でした。セレウコス朝の勢力は次第に衰えて行き、前63年、ローマ帝国の属州となりました。当時、ローマ帝国にとって西アジア最大の敵国はパルティア王国(アルサケス朝ペルシャ)でした。シリア州の統治はローマ帝国にとって重要な意味合いがありました。パルティアに対する東の防衛拠点がシリアだったのです。
(2013年9月)
その防衛拠点であるシリアの中でもパルティアに近く、重要な役割を果たしていたのがパルミラです。現在でもシリア砂漠に列柱群や神殿跡を遺し、その規模から時代と歴史の壮大なイマジネーションを働かせればいかにこの場所が重要であり、富と力による繁栄が築かれていたかは容易に想像が付きます。またパルティアはローマ帝国とパルティア帝国の商業交流の場でもあったのです。このオアシス都市パルミラの歴史は古く、近郊からは約7万5千年前の旧石器時代の石器が発見されているのをはじめ、紀元前18世紀の楔形文字で書かれた文章にも「タドゥミル」というこの町の呼び名も残されています。パルミアはまさに中東のヘソとも言えるでしょう。
アラビア半島やメソポタミアと地中海とを結ぶ土地であったために、古くから東西交易の中継地点として発展してきました。特に紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国とヨーロッパを結ぶシルクロードの隊商都市として栄華を極めました。しかし272年のローマ皇帝アウレリアヌスのパルミラ進撃によりローマ帝国の手中に収まります。その後は6世紀以降にアラブのガッサン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝と支配者が変わり、オスマン帝国時代には都市としての力を喪失。それ以来歴史の表舞台から姿を消すのです。ローマ帝国と敵対関係のパルティア王国は226年にササン朝ペルシャにその覇者の座を譲り、ローマ帝国も皇帝が軍人から選ばれる軍人皇帝時代に入り混乱期を迎えます。395年、ローマ帝国は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と西ローマ帝国に別れます。同年、シリアはビザンチン帝国の支配下に入りました。ビザンチン帝国はシリアを7つの行政区に分け、各地区に知事を置いて治安を維持していました。この頃のシリア経済と文化は農業、染色、織物などの手工業、地中海貿易などの経済基盤が出来上がっていたためにかなり繁栄していたそうです。
6世紀にはいるとビザンチン帝国とササン朝ペルシャ帝国の抗争が激しくなり、シリアは繰り返し戦火にみまわれます。7世紀になっても戦火は止まず、ビザンチン帝国に対して不満が募り出します。
(2013年10月)
7世紀に入ると西アジアは新たな時代を迎えます。アラビア半島で生まれたイスラム教が、シリア、メソポタミア、エジプトに広がり、西アジアの新たな統一が始まります。6世紀以降、ササン朝ペルシャとビザンチン帝国との抗争が激しくなると、イラン方面からシリアに至る東西交通路は次第に衰えていきます。それに代わりインド洋から紅海、エジプトを経てパレスチナを通り、地中海へ至る交易路が利用されるようになりました。この交易路はアラビア半島南端のイエメンとシリアを結んでいて、生活物資とともにアラビア半島南部やインドの香料、革製品、シリアの刀剣、織物、中国の絹、アフリカの砂金、象牙などが運ばれました。その結果、アラビア半島西海岸は急激に発展。メッカやメディナといった貿易の中継地点となる町が栄えるようになりました。
このイスラム時代(中世)を語る上で最重要人物がいます。ムハンマドです。ムハンマドは570年頃のメッカのハーシム家に生まれました。ハーシム家は当時最も有力なクライシュ部族の一族。幼少時代に孤児となったムハンマドは祖父のアブドル・ムッタリブが保護者となりました。ムハンマドは少年時代、シリア方面に隊商旅行に出かけていたためにユダヤ教やキリスト教の知識は得ていたようです。ムハンマドが40歳の時に神から啓示を受け、(初期の啓示では)ムハンマドは真の預言者であり、アッラーは唯一の神、宇宙の創造主であり、やがてくる最後の審判にアッラーの命令に服従して善い行いをした者は天国に、それを無視し、悪い行いをした者は地獄に落とされるというものでした。
本編より少し逸れますが、中東を語る上で外せない話題である宗教「イスラム教」について説明します。イスラムという言葉は「帰依する」を意味し、信徒は「ムスリム(帰依する人)」と呼ばれます。「唯一、至高のアッラーに絶対帰依し、その教えに従って生きること」を信条としています。
イスラム教はユダヤ教、キリスト教と同じくセム民族が作った宗教とされています。3つの宗教はともに、宇宙を創造し、その啓示は天使を介して行われています。
2013年11月
しかし、イスラム教が独特なのは「イスラム教が最後の啓示であり、それによって啓示のサイクルが完成した」と主張する点にあります。(ユダヤ教の教えを基本として発展させたのがキリスト教、イスラム教です)アッラーはユダヤ教、キリスト教の神「ヤハウェ」と変わりわありません。しかし、ユダヤ教にみられる選民主義は無く、キリスト教の「イエスキリストを神の子」とするのではなく、聖母マリアから生まれ、死んで天に登った偉大なる「使徒」とみなしています。イスラム教教典「コーラン」では、ムハンマドはアッラーの使徒であり、人間の子としています。ユダヤ教やキリスト教の初期の頃にあった「唯一の神を中心とした厳正なる宗教」はイスラム教に残っていると言えるでしょう。しかもイスラム教はキリスト教の「万民は平等」という思想を受け入れたうえで、その教義はキリスト教よりも現実的かつ合理的でわかりやすい内容といえます。
そして、そのムハンマドが開いたイスラム教は宗教上のみならず、政治的、社会的改革に繋がりました。ムハンマドは630年にメッカを占領、約10年の間に全アラビア半島を統一したのです。アラブ人がシリアへ進出したのは634年。全土の征服は638年頃に完了。つまり、わずか4年でイスラム教が急速に広まったという事になります。なぜ、ここまで広がる事が出来たのか?
理由があります。アラブ人はキリスト教徒やユダヤ教徒に比較的寛容で、異教徒に課せられる税金(ジズヤ)を支払えば宗教には干渉しませんでした。さらにイスラム教に改宗すれば貢税は免除しました。そうでなくとも旧支配国よりも税金の負担を軽くしたので、むしろアラブは協力的、かつ改宗するものが多かったのです。これはシリアのみならず、イスラム帝国全土でもそうでした。
(2013年12月)
ムハンマドの死後、その後継者であり、政治、軍事上の代表者である「カリフ」が登場します。カリフ(英語: Caliph)あるいはハリーファ(アラビア語: خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号で、原義は「代理人」。カリフはあくまで預言者の代理人に過ぎないため、イスラームの教義を左右する宗教的権限やコーランを独断的に解釈して立法する権限を持たず、かわりにこれらはウラマーたちの合意によって補われ、ただイスラーム共同体の行政を統括し、信徒にイスラームの義務を遵守させる役割しか持たない存在です。
西暦632年にムハンマドが死去した後、イスラーム共同体の指導者としてアブー=バクルが選出され「神の使徒の代理人」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称したことにその歴史が始まります。
カリフはアラブ人諸部族を集結させ、ビザンチンとササン朝両帝国の衰えに乗じて大規模な征服に乗り出しました。まず、ビザンチン帝国からシリア、パレスチナ、エジプトを奪い、651年にはササン朝ペルシャを滅ぼしました。しかし、アラブ人の内部では次第に富の分配への不満が募り、指導者達の対立が激しくなっていきました。その頃、シリア総督を勤めていたムァーウィアが661年、第4代カリフのアリーを倒し、自らがカリフとなり、ダマスカスを都としてウマイヤ朝を開きました。そしてそれまで選挙制だったカリフを世襲制としたのです。
ウマイヤ朝は征服を再開、中央アジア、西北インドまで進軍。コンスタンチノープルを攻撃、ビザンチン帝国を脅かしました。
さらに、アフリカ北部、イベリア半島に上陸。アジアからアフリカ、ヨーロッパにまたがるアラブ大帝国を形成しました。ウマイヤ朝はシリアの黄金時代といえる繁栄でした。当時のシリアはキリスト教徒勢力が強かったのですが、ムァーウィアは地震で崩壊したキリスト教会を再建するなどして、シリア人の心を巧みに掴んでいきました。ムァーウィアはシリアにおける権力を確実なものにしていきました。シリアを直轄領とし、灌漑を整備、農業を振興させ、地中海貿易にも力を入れました。
(2014年1月)
ムァーウィアは5代目アブド・アル・マリクと4人の息子の治世の間に全盛期を迎えます。ギリシア語やペルシャ語に代わってアラビア語が公用語となり、ササン朝ペルシャやビザンチン帝国に習い、首都ダマスカスと地方都市を馬やラクダの中継で結ぶ駅伝制を取り入れ、地方での重要な出来事をカリフに連絡させた。(ちなみにローマでも同様の連絡法で簡単な伝達は視界確認範囲に砦があるために松明の炎などで伝達できた)この頃、世界最古のモスク「ウマイヤド・モスク」が715年に建てられました。
もともとはキリスト教会でしたがシリア、イラン、ギリシャの職人の手によって多彩なモザイクが施され、モスクとして再建しました。世界でも指折りの歴史があるモスク「ウマイヤド・モスク」は現在でも巡礼者が訪れています。
一方、宮廷ではカリフ達が豪華な生活を送り、ハレム(婦人専用の部屋を設ける)制度、宦官制度(去勢)なども現れました。
しかし、ウマイヤ朝では、アラビア人中心の政権を敷いて改宗者を差別していたこともあり、住民の不満が各地に広がっていました。特にササン朝以来のイラン人はウマイヤ朝に強い反感を抱いていました。これに乗じてムハンマドの叔父アッバースの子孫がイラン人の協力の下、750年にウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を開き、バグダットをを都と定めました。ウマイヤ朝は、翌年ダマスカスから追い出され、その一族はイベリア半島に移り、後ウマイヤ朝(756〜1031)を建てました。結果、帝国は東西に分裂。アラビア人中心の支配にあったウマイヤ朝は「アラブ帝国」、アッバース朝以後は「イスラム帝国」と区別されています。
アッバース朝の最盛期はハルン・アル・ラシッドの時代。この頃のカリフは「神の代理者」としての権威を高め、ササン朝を受け継いだ官僚制度を敷いてイラン人を多く登用、中央集権体制を固めた。ウマイヤ朝時代よりもさらにヨーロッパ(ビザンチン)の影響を離れ、西アジア本来の帝国に復帰したといえます。対外貿易も活発に行い、特に北アフリカ一帯の東西貿易により利益を上げていました。また、この時代はイスラム独自の文化が開花しました。支配下に入った諸地域の文化を融合。特にギリシャ文化を広く取り入れイスラム教の元で発展させました。
(2014年2月)
アラビア哲学、天文学、商業算術、美術、建築、文学も発達。「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」もこの頃に出来上がりました。特にギリシャの学問がアラビア語に訳されて11世紀以降のヨーロッパに伝えられたのは重要です。(雑記ですが、星座や星の名前…例えばアルデバランとか不思議な音の響きだと思いませんか?実はアラビア語。アルは定冠詞。)帝国の首都がバグダッドに移ってから、シリアは単なる一地方に過ぎない存在になってしまいました。しかし、ダマスカスはさらに発展。文化面でもイスラム文明の発達に大いに貢献しました。特にシリア人は過去1000年の間、ギリシャ語に親しんでいたため、ギリシャ語からアラビア語への翻訳作業を多く任されたそうです。
9世紀の半ばになると、アッバース朝の勢力は衰え、諸王朝の興亡が繰り返されました。エジプトで独立したトールン朝(868〜905年)がパレスチナから中部シリアを支配。10世紀前半には中部シリアはトルコ系のイフシード朝に支配され、北シリア方面はハムダーン朝(905〜1004)の支配下に入りました。シリア南部と沿岸地方には、チュニジア興ったファーティマ朝(909〜1171)が侵入。その後、北部シリアは混乱期に入りビザンチン帝国がしばし押し寄せました。この後シリアはエジプトに本拠地を置く勢力に支配されることが多くなりました。
11世紀に入ると、ヨーロッパでは十字軍運動が起こります。十字軍(ラテン語: cruciata、英語: crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のこと。一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われています。運動は1095年から約200年間にわたって続きました。西アジアでは10世紀後半に中央アジアで興ったトルコ系セジューク・トルコが勢力を伸ばし、セルジューク帝国を建設。元来、キリスト教では聖地への巡礼は最大の徳とされ、巡礼者があとを立たなかったが、トルコ人のキリスト教とに対する迫害がしきり行われるようになった。これが十字軍運動の大きな引き金となりました。
(2014年3月)
シリアはセルジューク帝国の支配を受けていましたが、1098年、十字軍はシリア北部アンティオキア(現アンタクヤ:トルコ領)を攻め、翌年エルサレムを占拠。その後、北シリアからアカバ湾にいたる十字軍国家を建設しました。十字軍時代のシリアは戦争の時代でした。が、ヨーロッパへの交易が盛んに行われていました。この時代に西アジアの産物や技術がヨーロッパに伝わりました。イスラム教徒が航海に使っていた羅針盤もその一つです。
この十字軍侵略に対して反撃に出たのがファーティマ朝の宰相(「さいしょう」は「特に君主に任ぜられて宮廷で国政を補佐する者」を意味する。)を務めていたサラディーンでした。彼は1187年にはエルサレムを奪回し、アイユーブ朝(1169〜1250年)の君主となりました。1192年には十字軍との間に和平条約が結ばれ、キリスト教徒のエルサレム巡礼が保養されました。アイユーブ朝時代は、シリアが再びウマイヤ朝以来の繁栄を取り戻した時期でした。シリア各地は、同朝の諸侯達によって分割統治されていました。
シリアからは、砂糖やオリーブをはじめとする農産物、ガラスや貴金属品、織物、家具類などがエジプトやヨーロッパに輸出され、地中海沿岸やアレッポ、ダマスカスといった都市がおおいに栄えました。これらの都市には、モスクやマドラサ(神学校)、ハンマーム(サウナのような公衆浴場)、病院などの施設が建てられ、東方から学者や職人が移住。イスラム世界の文化の中心地となりました。
13世紀の中頃、アイユーブ朝に代わってシリアを支配したのがエジプトで興ったマムルーク朝(1250〜1517年)です。この時代のシリアはモンゴルやティムールの侵入、諸侯間の闘争、疫病の流行などで混乱を極めていました。経済力も衰退。停滞の時期へとなります。衰退の原因はモンゴル人の潜入でした。チンギスハンの孫フレグが率いるモンゴル軍は1258年、イラクに入り、バグダッドを攻略。フレグはイランを中心としたイル・ハン国を建てました。1259年にはシリアに進んでアイユーブ朝を倒し、アレッポとダマスカスを占領。パレスチナに向かおうとしましたがマムルーク朝がこれを阻止します。
補足:1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)、アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き、西部進出を伺った。1260年、フレグはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻(英語版))、アレッポとダマスカスを支配下に置いた。
(2014年4月)
マムルーク朝(1250〜1517年)とは、アイユーブ朝のトルコ人奴隷だったアイバクが軍司令官に昇進、同朝のスルタンであったサーリフの死後、マムルーク朝を建国。エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝。首都はカイロ。一貫した王朝ですが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就きました。
対峙するイル・ハン国(イルハン朝)は現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1258年 〜1353年)。首都はタブリーズ。1260年春頃に兄モンケ死去の報を受けると、フレグはカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄クビライ(元世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断。フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失、以来マムルーク朝とは対立関係となりました。
この2つの国家にもやがて変革と終焉が訪れます。イル・ハン朝は1295年、アバカの孫ガザンが第7代ハンに即位。ガザンはハン位奪取にあたってイスラム教に改宗。これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たします。そして、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、衰退しかけたイル・ハン朝を復興させていきます。1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残りホラーサーンを支配していたトガ・ティムール・ハンが殺害され、イランからはチンギス・ハーン一門の君主は消滅しました。一方、マムルーク朝は1310年頃、ナースィルのもとでキプチャク・ハン国と同盟を結んでイル・ハン国との和解もはかられ、マムルーク朝の内外の情勢は安定し、首都カイロは国際商業都市・イスラム世界を代表する学術都市として栄えました。
(2014年5月)
しかし、15世紀にペストの流行をきっかけにカイロの繁栄に陰りが見え始め、マムルーク朝を支えたエジプトの経済も次第に沈降に向かっていきました。16世紀初頭にはインド洋貿易にポルトガル人が参入し、1509年にはマムルーク朝の海軍はインドのディーウ沖でポルトガルのフランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊に敗れます(ディーウ沖海戦)。陸上ではオスマン朝との対立が深まり(オスマン・マムルーク戦争 )、1516年、北シリアのアレッポ北方で行われたマルジュ・ダービクの戦いでセリム1世率いるオスマン軍に大敗を喫しました。
翌年、セリム1世はカイロを征服し(リダニヤの戦い)、マムルーク朝は滅亡しました。この頃、オスマントルコが小アジア(トルコ)で勢力を伸ばしていました。のちのオスマン帝国(1299〜1922)です。オスマン帝国の歴史は長くなりますので割愛させていただきますが、その終焉は1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に生まれ変わりました。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅……という歴史です。
この長い中東の歴史を振り返る事で珈琲の道筋を探り、追いかけることができます。
ここで大切なポイントはどのように物資が運ばれ、人々が国を超え交流していったか?ではないでしょうか。「すべての道はローマに通ず」とは『〔ローマ帝国が全盛のときには,世界各地からの道がローマに通じていたことから〕手段は異なっても目的は同じであることのたとえ。また,真理は一つであることのたとえ。』ではありますが、古代ローマ帝国の農業や物資などの生産力は国をまかなえるものではありませんでした。周辺地域を次々征服または臣従。それにより国力を補い生産力を上げ、そして消費していました。これら周辺地域や辺境を結ぶ道路(ローマ街道)は物流の要。そして国を守るための生命線でもありました。この完璧にまで整備された物流網を利用しない手はない。ローマ滅びた後のローマ街道は国境線に近い役割をしていたのではないでしょうか。
(2014年6月)
中東とローマの関係。それは強大な両国のパワーバランスを均等にすることで互いを成り立たせていたように思えます。国境線では緊張が続き、大きな争いがいくつもありました。したがって、当然ですが中東の領土にローマ街道が整備されるわけがありません。しかしながら重要なのは睨み合う両国でも若干ながら物資の交流はあったということです。東側に整備されているローマ街道はコンスタンティノーブルからダマスカス、イェルサレムからナイル川を挟みアレクサンドリアがローマ街道極東範囲です。では、中東の珈琲文化はどの様に動いて行ったのか?イエメンコーヒーの伝播は?この辺のお話をしなくてはなりません。
現在の科学でコーヒーのDNAを調べると起源はエチオピアに辿り着くそうです。パンゲア大陸時代、同時多発的に現在のエチオピア、イエメン山岳部に生息。大陸はやがて分断され、原種は現在に至る…という話もありますが、エチオピア起源で話を進めていきます。エチオピアでは高原地帯に自生するコーヒーノキの果実の種子が古くから食用にされていました。現地の人間はボン(コーヒー豆)を煮て食べていたと考えられているます。エチオピアの奥地ではボンを煮て食べる習慣が長く残り、エチオピア南西部の奥地に住むオロモ族の間には子供や家畜の誕生を祝ってコーヒーと大麦をバターで炒める「コーヒーつぶし」の儀式が残るようです。また、エチオピアでは乾燥させたコーヒーの葉で淹れた「アメルタッサ」、炒ったコーヒーの葉で淹れた「クティ」という飲み物も愛飲されています。やがてボンはアラビア半島に伝わり、アラビア語で「バン」と呼ばれるようになります。コーヒー豆から抽出した飲料について、9世紀のイランの哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィー(ラーゼス)が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について記述しています。バンカムは乾燥させたバンを臼ですり潰して熱湯に入れて煮出した飲み物であり、コーヒーの原型と考えられているが、当時、豆は焙煎されていませんでした。
バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会はありませんでした。
(2014年7月)
バンカムはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修道者(スーフィー)によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説(「眠りを知らない修道院」「シェーク・オマルの逸話」「コーヒーの合理性の擁護」)にはいずれもスーフィーが関与しています。スーフィーたちは徹夜で行う瞑想や祈りのときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲用されるバンは彼らから神聖視されました。やがてバンカムは「カフワ(欲望を減退させる飲料。酩酊する飲み物は全てカフワと呼ばれた。ワインなどのアルコールもカフワ)」と呼ばれるようになります。スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていたようです。
13世紀に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになります。15世紀以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まります。イエメンの古都ザビードでは、1450年ごろにスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘。16世紀初頭には、カイロのアズハル大学でもコーヒーが飲まれていたようです。
では、この当時のヨーロッパでコーヒーは飲用されていたのでしょうか?古代ギリシャや古代ローマでコーヒーは食用されていました。しかし、取引の対象になっていたことを示す確たる史料は残念ながら見当たりません。古代エチオピアに成立したアクスム王国にもコーヒーの利用・取引が行われていたことを証明する発見はされていません。17世紀初頭、イタリア人ペトロ・デッラ・ヴァッレによって、ホメロスの「オデュッセイ」に登場するネペンテスという飲み物がコーヒーに相当する説が唱えられましたが、後の時代ではデッラ・ヴァッレの説は否定的に受け止められているようです。
(2014年9月)
他にも17〜18世紀のヨーロッパでは、スパルタの人間はコーヒーを愛飲していたとか、『旧約聖書』にコーヒーに関する記述が存在する、といった説が持ち上がっています(珈琲研究家、井上誠氏は旧約聖書に出てくる《赤き羹(あかきあつもり)》は珈琲を意味するのではないか?と書籍の中で語っています。また、アダムとイブの食べた赤い実は林檎ではなくコーヒーの実ではないか?といった説も存在します)。
17世紀初頭のイスラーム世界の年代記作家アブー・アッタイイブ・アルガッズィーは、ソロモン王によって初めてコーヒーが入れられたと記しています。
16世紀初頭のメッカ、メディナ、あるいはカイロのモスクではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたそうですが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となったようです。1511年にはメッカで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きました。翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任されました。1525年、1526年には風紀を乱すとしてメッカ内のコーヒーハウスの閉鎖が命じられましたが、コーヒー自体の飲用は禁止されませんでした。
宗教上の視点ですが、コーラン(クルアーン)では炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒーの飲用がシャリーア(イスラーム法)に抵触している疑義、あるいはコーヒー自体がビドア(宗教的逸脱)に該当する懸念のため、コーヒーの飲用に対する反対意見はなおも出続けます。そしてもう一つの問題点、コーヒーを供する店が政治的な活動の場、もしくは賭博や売春の場となりえたために国家から嫌悪されていました。コーヒー弾圧の後もカイロやメッカではしばしばコーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きました。コーヒーの産地であるイエメンでは、コーヒーとカートを想像上の対話で戦わせるという文学ジャンルが生まれました。
(2014年10月)
スーフィー達が眠気覚ましに使ったバンカムが珈琲の始まりというのは説明致しましたが、実は豆が焙煎されるようになった経緯は不確かです。偶然起きた何らかの事故で豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられています。はたしてどのような事故か?一説には「山火事が起きて偶然焙煎が進んだ豆があった」という山火事説が有りますが私はこの説に否定的です。この当時、コーヒーは赤い実をイブリック(胴長の鍋の様なもの)で煮出していました。珈琲の実を煮出しているのを忘れ、火にかけっ放してしまい水が蒸発、豆が焦げていった(焙煎された)のが始まりではないかと思っています。コーヒー飲用の記述が最初に書かれたのは10世紀頃、ペルシャの医者ラーゼスや哲学者アビセンナの残した記録に中に登場する珈琲らしき記述が最初です。13〜14世紀頃にコーヒーノキがエチオピアからイエメンに伝播、1258年頃に「シェーク・オマルの逸話」としてコーヒーが登場します。
珈琲の普及と焙煎の経路を示す証拠として、トルコ、イラン、エジプトでは、豆の焙煎に使われた1400年代の道具が発掘されています。また、コーヒーの一般への普及に伴って、マジュールを製造していた陶工たちはコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになったようです。1517年、オスマン皇帝セリム1世によるエジプト遠征。そして1555年に大きな事件が起きます。ハキムとシャムスという2人のシリア人商人によってコーヒーを飲むという習慣がコンスタンティノーブルに広まりました。1555年にはイエメン、エチオピアの湾岸部の一部がオスマン帝国に占領。コーヒー産地へ近づきやすくなった帝国は同時にコーヒー飲料の習慣がさらに広がったのです。
コーヒーの語源はエチオピアの「カッファ」地方に由来する…と言われています。しかし現地ではコーヒーの呼び方は部族によって様々な呼び方がありました。おそらく、統一性のない名称を指し示すために「カッファ地方で収穫されたもの」が転じて(カッファ)=(カフワ)になったのではないでしょうか?アラビア語の「カフワ」がトルコ語に転訛して、トルコに入ったコーヒーは「カフヴェ」と呼ばれるようになりました。
(2014年11月)
1530年代にオスマン帝国の支配下に置かれていた北シリアのダマスカス、アレッポにコーヒー店が開かれたようです。ハキムとシャムスという2人のシリア人商人によって1555年にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれ、皇帝セリム2世の時代(1566年 - 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていたそうです。
トルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、トルココーヒーの名前で知られるようになります。やがてコーヒーはサファヴィー朝が統治するイラン、ムガル帝国が統治するインドにも伝播。コーヒーがもたらすであろう利益に着目した商人はイエメンの外に大量のコーヒーを持ち出し、小規模のスタンドや店舗でコーヒーを販売。宣伝を行ったのです。このような店舗はカフヴェハーネス(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合う場所。または、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まりました。しかし、地方のカフヴェハーネはならず者のたまり場となり、1570年に学者たちはイスタンブルのカフヴェハーネを非難。また、カフヴェハーネでは政治的な議論の場にもなり、時には権力者から弾圧を受けることもありました]。1580年にコーヒーがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、オスマン帝国内のコーヒーの消費は増え続けていきます。
オスマン皇帝アフメト1世の治世(1603年〜1617年)に「コーヒー豆は炭になるほど強く火にかけられていない」という見解が出され、コーヒーはイスラーム世界で公的に認可された飲み物となりました。メッカにおいては、コーヒーはザムザムの泉の水と同じ効力のある「黒いザムザムの水」として飲まれ、巡礼者たちはコーヒー豆を故郷に持ち帰りました。また、オスマン帝国の貴族・高官の間には、コーヒーを供するにあたって厳格な作法が成立していたようです。
初期のイスラーム世界のコーヒー店ではコーヒーは大鍋に入れて温められ、小さな容器に移して客に供されていたと考えられています。
(2014年12月)
イスラーム世界ではコーヒーに砂糖と牛乳を入れることはほとんどなく、調味には主にカルダモンなどの香辛料が使われていました。また、牛乳を入れたコーヒーはハンセン病の原因になるという迷信が存在していました。
フランスが初めての珈琲を輸入したとされる1660年ごろに中国に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われています。17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれました。1574年、オスマン帝国を訪れたヨーロッパ人(シリアに滞在したドイツ人医師ラウォルフ)による最初の珈琲に関する記述があります。
このころから中東を旅したヨーロッパ人が旅行記にコーヒーを記述するようになりました。1587年、アブド・アル・カディールが「コーヒー由来書」を書きます。この中には13世紀の発見伝説やアデンでのザブハニーの公開などの記述があります。1600年、イギリス東インド会社設立。翌々年オランダも東インド会社設立。東インド会社は17〜19世紀にかけてアジア・ヨーロッパ間の直接貿易や、南アジア、東南アジアにおける植民地の経営に従事。この頃、アラビア人ババ・ブタンによってインド西海岸にコーヒーノキが伝えられたようです。
1618年、イギリスがイエメンのモカ港に商館を設立。1625年頃、カイロのコーヒー店は300を超え、砂糖入りのコーヒーが飲まれ始めます。1628年、オランダの商人が初めてインド、ペルシャ向けにモカでコーヒーを40袋買い付けました。1640年、ヨーロッパが最初にコーヒーを輸入。オランダ商人ウルフバインによってモカ港よりコーヒーを船積み、アムステルダムで売り出しました。これより徐々にコーヒーが世界へ広まっていきます。1645年にはベニスに初めてのカフェが誕生。1650年、イギリスに最初のコーヒー店開店。52年にはロンドンにコーヒーハウスが誕生します。1660年、フランスが初めてのコーヒーを輸入。1664年、オランダにカフェが開店。定期的なコーヒー輸入が始まります。
(2015年1月)
1670年、ドイツにコーヒーが入ります。1672年、パリに最初のカフェが誕生。そして、オスマン帝国時代で重要な出来事の一つ、ポーランド生まれのトルコ軍通訳者で、オーストリア、ウィーンに珈琲を伝来させた功労者フランツ・ゲオルグ・コルシツキーを忘れてはいけません。
1683年7月、ウィーンはトルコ軍の包囲下にありました。コルシツキーはポーランド救援軍への伝令に立ち、8月13日トルコ軍服を身につけて敵陣を突破。両軍の間を数度往復し、9月のウィーン包囲を破る勝利に貢献しました。その時、トルコ軍はテント2万5千、食用牛1万頭、ラクダ5千頭、穀類10万ブッシェル(ブッシェル…穀物の重さを基準とする重量単位:穀物の種類によって異なり、小麦の場合60ポンド→27kg)と膨大な金、更にコーヒー豆の詰まったおびただしい数の袋を残し敗走しました。しかし、ウィーンではコーヒー豆の使い方を知っているものがいなく、一人コルシツキーだけがその豆を報奨として受け、市政府から邸宅も贈られました。彼はそこでコーヒー店「青い瓶」を始め、ウィーンにコーヒーを広めた…というお話があります。最近の研究ではウィーンにはそれ以前にコーヒーが伝わっていたとする論文もあるようですが。(余談ですが、最近話題のサードウェーブコーヒー「ブルーボトル」はコルシツキーの「青い瓶」が由来ではないでしょうか。)
1600年代はまさにかカフェ文化の黎明期と言えるでしょう。そして1800年にフランス人ドゥ・ベロワによって生み出されたドリップ式コーヒーポッドによって現在の透過式抽出方法が主流になっていくわけです。コーヒーが焙煎され始めたのは何時か?との答えは未だ解決されていません。1400年代にはおそらく焙煎が始まっていたと考えられています。そこから約400年間、珈琲は浸透式で抽出されていました。トルココーヒーを飲んだ経験がある方ならお分かりだと思いますが口の中にコーヒーの微粉がザラリと残ってしまいます。そのコーヒーを飲む習慣をコンスタンティノープルに伝承したシリア人がいました。ダマスカスとアレッポに生まれた2人のシリア人商人ハキムとシャムス。1555年、2人はコンスタンティノープルにシリア式珈琲が飲むことが出来る店を構えました。そこから爆発的に珈琲を飲む習慣が広まったのです。この二人の足跡を探る為には中東の歴史を探る必要がありました。
(2015年2月)
オスマン帝国はセリムの子「壮麗者」スライマーン一世の絶頂期(1520年〜1566年)にコーヒーを飲むという習慣が定着したようです。1566年には洗練されたコーヒーハウスから粗末なキオスクまでその販売件数は600を超えていたと言われています。このオスマン朝トルコ人の支配時代のシリアはトルコの属州でした。シリアがマムルーク朝であった時、1516年8月アレッポ北部でオスマン帝国と衝突して以来第一次大戦が起こるまでの4世紀に渡ってトルコの支配下でした。戦後、シリアからのコーヒー抽出方法がトルコに渡り、やがて世界に広まったのは1922年まで続くオスマン帝国が有ればこそだと思います。中東は常に混乱しています。文化、政治、宗教が隣り合い、互いの利益の為の領地確保は混戦を極めていました。幾つもの王朝が生まれ、倒れ、そして一つの強大な国の一つになっていく。
その結果がオスマン帝国なのです。もし、この混乱が擦れていたら中東はどうなっていたでしょう?もしも(歴史に「もしも」は禁物ですが)シリアがオスマン帝国の支配下になるのが100年遅かったら…その後に起こる第一次大戦もずれていた可能性があります。そしてコーヒーの歴史も。1800年にベロワがポットを作っていなかったら、未だに透過式コーヒーを飲んでないかもしれません。ハキムとシャムスがトルコにコーヒーを伝えることがなかったかもしれません。コルシツキーがウィーンにコーヒーを持ち帰ることがなかったかもしれません。そう考えると、私にとってコーヒー文化の伝承者はハキムとシャムスなのです。この二人の足跡を辿る……シリアは私にとってをライフワークたるテーマだったのです。
約2年に渡って「中東の十字路」という文章を書きました。ハキムとシャムスが歩いた道のりを辿り、コーヒーの歴史や資料を探そうと思い立ったのが4年前。まさかシリアが現在の様な混乱に陥るとは思いもしませんでした。中東の歴史で見ると平和な時期より混乱している時期の方が多い。判っているのですがなんとも悔しい限りです。おそらく混乱は数十年かかるでしょう。私が生きている間に行けるチャンスがあればシリアに渡り足跡を辿ることにします。
(2015年3月)
○編集後記1○
コラム「中東の十字路」が先月で完結いたしました。2月で第24回目の連載。2年と1ヶ月の長期連載でした。
2年前(2013年1月)、シリア騒乱(シリアそうらん)と呼ばれる反政府運動が始まりました。国際連合などにより事実上の内戦状態と認識されているこの出来事から「シリアに行きたい」という思いを断ち切れず、一先ず自身で整理する為にもと思い書き始めました。2年経った現在、騒乱は深い混沌を生み、憎しみの連鎖が諸外国にも広がりつつあります。10年前、イエメンに行った時の事、旅の注意事項に「星条旗が入った服やバック等は身につけないでください」とありました。イエメンは完全に反米です。例えばイエメン人でビンラディン家の悪口を言う人は殆ど居ません。何故なら近隣国に買い叩かれていたイエメン産の蜂蜜を国の特産、輸出品目にまで地位を高めた一家だからです。(そのビンラディン家のウサマ・ビンラディンは家から縁を切られ、後にテロリストとして米国に処理されましたが。)
……つまり、角度が変われば見え方も変わるという事です。
現在、「イスラムの人間はテロリスト」の様にSNSやTwitterで過激な意見を目にします。先日の悲劇の後、中には「今すぐアメリカ軍と一緒に攻撃して皆殺しにしろ」と言ったような過激な意見も目にしました。それじゃテロリストと一緒だよ。まったく。ホント、吐き気がします。ムスリムからすれば、無神でクリスマスを祝い、結婚式は教会で、初詣には神社に行き、お盆は仏様を迎えるこの国の方が余程「奇々怪々」に思えるでしょうね。
アラビア語の挨拶で「こんにちは」は「アッサラーム アライクム」と言います。直訳すると「あなたたちの上に平安を」という意味を持ちます。クルアンには日々を正しく生きると言うことが書かれているのではないでしょうか?こればかりは実際に読んだこともありませんし、イスラム教徒でもありませんから解りませんが、「神様が見ている」と言う一点から想像できます。平安があれば争いは起きないはずなんですけどね。(FB投稿を加筆、改変いたしました。)
(2015年4月)
○編集後記2○
今朝のニュースですが、【2015年02月06日 07:15 アンマン/ヨルダン AFP】
『ヨルダンは5日、イスラム教スンニ派(Sunni)の過激派組織「イスラム国(Islamic State、IS)」に対する空爆を再開したことを明らかにした。同国政府はこれに先立ち、イスラム国がシリアで拘束していた同国軍パイロットを焼殺したことを受けて厳しい対抗措置を講じると宣言していた。首都アンマン(Amman)の政府関係者は、「ヨルダン空軍がイスラム国の拠点に対する攻撃を始めた」と述べた。また軍が出した声明によると、「ヨルダン空軍のイーグル戦闘機がきょう(5日)開始した」攻撃について、空軍参謀総長がアブドラ・ビン・フセイン国王(King Abdullah II)に報告したという。』
と、状況はアメリカ軍の介入にまで発展しそうな勢いです。おそらく、各国と連携を取り、掃討作戦が展開される事態にまで発展するでしょう。そもそも、アメリカ軍が展開した湾岸戦争が始まりだと思います。これが約20年前。ISILメンバーに湾岸戦争で身内を殺された人はどの位居るのでしょう?介入してはいけない処に土足で入り込んだ大国はトレードセンタービルへの報復を受けます。報復の憎しみはアルカイダのビンラディンに向けられ、殺されました。これが連鎖と言わずなんと言いましょうか。