2017年秋、福岡の中心、天神にあるイムズ。その8Fにある(三菱地所アルティアム)で「諏訪 敦 2011年以降 / 未完」という日本を代表する写実画家、諏訪 敦氏の個展が開催されていました。西日本での個展は福岡が初。氏の作品を見ようとするならば東京に行くか、若しくは個人所有の美術館に行くしか方法はありません。私は数年前より氏のファンで諏訪敦氏作品集「どうせなにもみえない」を見るまで、写実という表現方法は超絶技巧的表現力だと理解しながらも「写真でよいのではないか?」という素人的シンプルな考えを同時に持ち合わせていました。作品集「どうせなにもみえない」を購入した理由も、人物画の影、青の表現のリアリズムに興味があり購入という、諏訪敦氏のネームバリューで購入したわけではなかったのです。しかし「どうせなにもみえない」に掲載された作品、そしてそのテキストを読み進めるうちに、諏訪敦氏の見えている世界に引き込まれていきました。
物や人物を描写するだけでなく、絵が完成を迎え完結するまでの瞬間。その瞬間までの被写体の肉体や精神の状態が積層されたと見え始めた途端、写実主義の一端を理解した気がしました。写真では表現できない方法。写真以上の表現方法を織り込むことができる。絵画ならではの手法で表現が可能なのです。諏訪敦氏の描く女性は一度見ると脳裏に焼き付きます。恐らくそれは、見てはいけないタブーのようなものを覗き見してしまったような、まるで己の深淵を覗き見た時に、深淵もまた覗き返してくるという感覚に似ている気がするのです。
会場ではドキュメンタリー映画「flow」(19分)が上映されていました。内容は(静脈の音をきいた)という裸像のモデルのドキュメンタリー。彼女は肝機能障害を患い、臓器移植は免れない状況。外見の著しい変化と女性機能の喪失を怖れていました。駄目元で諏訪氏に自分の姿を絵に描いて欲しいとアポイント。
受け入れた諏訪氏。映像の中で諏訪氏は彼女にどの様な表情がいいか尋ねていました。彼女は「お任せします」と。「でた!」と少し茶化すも直後に「じゃあ、怒った顔でもいいの?(お任せします)…しないけどね」と。しかしこの作品にはなんとも言えない感情の波が手の表情として現れている(表されている)気がしました。
(2018.01)
己をかきむしる様な遣る瀬無さ、恐怖。時間軸がハッキリと絵の中に閉じ込められている感覚を作品に覚えました。(職業上つい手を見てしまうのですよね)個展での展示作品数は多くありませんでしたが、十分な満足感があり、逆にこれ以上点数があっても脳内がパンクしてしまうので丁度良い点数だったのかもしれません。幸福感とともに画集を購入。帰路に着くも時間があれば店内で画集を開き、何故これ程までに魅かれるのか?を考えてみました。
写実という世界。それは私が生業とする職業に近しいのではないか?重なる部分を感じてしまうから魅かれたのではないか。そんな考えに至りました。芸術と珈琲は不思議に近い席に座っている気がします。私の尊敬する珈琲の神様、珈琲美美の故森光宗男氏は画家、熊谷守一のコレクターでもあり店内には季節ごとに版画が入れ替わります。主に晩年の抽象絵が店内を彩ります。また愛機のライカで写真を撮るのがお好きで、写真のピントの合わせ方と珈琲のブレンドを調和させる事。音楽はJ.S.バッハが大好きで、音の響きと味の表現についてお話をされていたのを思い出します。
私は森光氏を尊敬しつつも、しかし同視線で抽象的世界観から珈琲にアプローチする事はしませんでした。私が私の珈琲を創り上げるためには私故の視点を探る必要を珈琲美美から学んだ様にも思えます。森光氏に少しでも追いつきたく、運命的にも同じ型の焙煎機を手に入れることが出来ました。同じ型による味覚の探求を行ってきましたが、6年前、もっと曖昧さを取り除けないか?より厳密な焙煎が出来ないか?そのように考えてしまう事、つまり焙煎機の限界を感じてしまったのです。そして焙煎機を新しい物に変更。今思えばここから「写実的焙煎主義」が始まったのだと思います。
(2018.03)
では、「写実的焙煎」とはなにか。コーヒーの原材料、コーヒーは(豆)とありますが、じつは豆ではありません。平たい部分同士が抱き合っている種子の部分、これが(豆)の正体です。見た目の判りやすさか(豆)と表現される様になりました。この種子の部分、生豆は焙煎という工程を得て初めて口に入るものが出来ます。焙煎、つまり豆に火を充てる作業は、己のイメージを珈琲に投影する作業とも言えます。自分の知っている味を写し込む。写し込む作業というものは焙煎士の焙煎理論全ての積層を投影する作業であり、焙煎士の表現方法でもあります。しかしイメージの投影だけなら(写実)にはならない。経験と知識の味作りだけでは「模写」の手の平でしか踊れないのではなかろうか?その様に考えると新しい味ではなく、何処か知った味の再現でしかないのではなかろうか?
例えるなら、「コーヒー苦い」が知識なら、己の知識のコーヒーは苦い物と認識、味わうコーヒーが苦かったなら「ほら、やっぱりコーヒー苦い」になるのです。これはコーヒーに何処まで火を入れるか?専門的には「焙煎度」という尺度がありますが、ローストの色の濃さで味わいが変わるというものです。確かに何処の産地でも、浅く焙煎を仕上げると酸味傾向のコーヒーが出来上がり、深く焙煎すると苦味のコーヒーになります。しかしこれも、知った味の強弱だけではなかろうか?真実、深層の豆の個性を引き出すことができれば、突き詰めた針の穴の様な一点にならないのか?
森光氏の言葉に「コーヒーを正して待つ」というのがあります。工程や方法論、条件、状態は基本として、私が思う(写実的焙煎)は勝手に出てくる豆の個性やバランスを見て、何処がベストか?何処が私が求める深淵か?その深淵からコーヒーが私を覗く事が出来る穴を開ける工程であり、仕上がった焙煎豆は勝手に焙煎士の個性が添加される事のように思えるのです。生意気にも私は、画家 諏訪敦 氏の写実に何か、こう、言い表すことが難しいもどかしさと答えを鑑みてしまうのです。
(2018.04)
ブリタニカ国際大百科によると、芸術とは【本来的には技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。】とあり、さらに【自然における創造は自発的であり,また技術や知識による創造は概念的であるのに対し,芸術はいわば直観的である】とあります。多くの人を魅了する芸術作品は技術や知識といった持つべき当然の基礎の上に成り立っていると考えます。その一つ上にある昇華された感性の領域が芸術ではなかろうか?
諏訪氏の描く写実が私の好みと言ってしまえば其処までなのですが、多くの写実は写真のような表現方法が多いと思います。最初にも書きましたが「写真でよいのではないか?」というスーパーリアリズムの追求されている作品、もしくはその場をカンバスにコピーしたような作品を見かけます。前者は、私にはエッジが強く感じられるのです。明暗がくっきり分かれ浮き出したように見えるとでも言いましょうか?シャープ過ぎて、リアリティあふれる表現なのに違和感を感じてしまいます。悪く言えば、良くできた絵。後者はそれこそ「写真でよいのではないか?」になってしまいます。この2つの表現は私の求める「珈琲写実」ではありません。
経験と知識で殆どの事象は回答に導き至ると思います。しかし表現となると、どうしても個性が添加されてしまいます。しかし個性はギリギリに押し留める。最終的に仕上がったものに全体に薄い一枚の膜が覆い被さって一つの作品となる。ここに私は魅力を感じるのです。コーヒーの場合、他店との違いを出そうとなると個性優先にした表現で提供してしまう傾向になります。勿論これを否定しません。私もかつてそうでした。そうでなければとも思っていました。この表現方法で大成功を収めているコーヒー店も多くあります。しかし、私自身が「まてよ…」と思ってしまった以上、止めることは出来ません。私の考える珈琲の味に信念を妥協する事が出来ればよかったのですが、出来なかった。
そんな時に焙煎機を変更し、タイミング良く諏訪敦氏の写実に出会ったのは私にとって救いでした。そして私の求める「写実的珈琲」とは【特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。】だと今は考えています。
(2018.05)
昨年10月27日にFaceBookにて福岡のイムズ8F(三菱地所アルティアム)で開催していました「諏訪 敦 2011年以降 / 未完」を見に行ったことを「金曜コラム」として発表致しました。FBでの記事はTwitterと連動していまして、自動的にアップされます。実はその記事を運良く諏訪敦氏が拾ってくださり興味を持っていただきました。引用リツイートで《新鮮なパワーワードが散りばめられていて私自身面白く読みました》とのコメントを頂きました。その後のやりとりで《自分の味のイメージに向かって焙煎で描写していくという感じは、確かに!という感じです。いつか味わいたいものです。写実的焙煎珈琲豆。》と。それから私は図々しくも豆を送ることに。ダイレクトメールにて受け取り可能な住所をお伺いしてコーヒー豆を送りました。調子に乗って「きっとお客様は沢山訪れるに違いない…」と珈琲豆1kg送りました。ちょっと送りすぎたなと今でも反省しております。
さて、その豆が到着後、こんなメッセージを頂きました。《この出来事を、25日販売の芸術新潮12月号の書評欄で、ほんの少しだけ書いています。》と。芸術新潮12月号書評欄(厳密には筆者近況ですが)に「写実的焙煎」を取り上げて頂きました。その芸術新潮は当店本棚にございます。その数日後、諏訪氏のTwitterにて珈琲を飲んでくださっている写真が!大理石のパレットの上にマグカップが!大事なのでもう一度書きますが【大理石のパレットの上にマグカップが!】嬉しい!嬉しすぎるじゃないですか!日本を代表する写実画家、諏訪敦氏の数々の作品を生み出してきた大理石パレットの上に当店の珈琲が乗ったのですよ!いやぁ、こんな時に思うのですが、やってて良かったなと。まさに今のSNS時代ならではの出来事でした。今回連載した「写実的珈琲主義」は若干の修正後、HPにアップいたしますのでまた見て戴ければと思います。感謝。
(おまけ)
FB掲載 10月27日(金)【 Le Jardin de Qahwah 金曜コラム】
火曜日に日帰りで福岡に行ってまいりました。目的は11月5日までイムズ8F(三菱地所アルティアム)で開催の「諏訪 敦 2011年以降 / 未完」が目的でした。諏訪敦氏作品集「どうせなにもみえない」を見るまで写実という表現方法は超絶技巧的表現力だと理解しながらも「写真でよいのではないか?」という素人的シンプルな考えを同時に持ち合わせていました。作品集「どうせなにもみえない」を購入した理由も、人物画の影、青の表現のリアリズムに興味があり購入という、諏訪敦氏のネームバリューで購入したわけではなかったのです。しかし「どうせなにもみえない」に掲載された作品、そしてそのテキストを読み進めるうちに、諏訪敦氏の見えている世界に引き込まれていきました。
物や人物を描写するだけでなく、絵が完成を迎え完結するまでの瞬間。その瞬間までの被写体の肉体や精神の状態が積層されたと見え始めた途端、写実主義の一端を理解した気がしました。写真では表現できない方法。写真以上の表現方法を織り込むことができる、絵画ならではの手法での表現が可能なのです。諏訪敦氏の描く女性は一度見ると脳裏に焼き付きます。恐らくそれは、見てはいけないタブーのようなものを覗き見してしまったような、まるで己の深淵を覗き見た時に、深淵もまた覗き返してくるという感覚に似ている気がするのです。会場ではドキュメンタリー映画「flow」(19分)が上映されていました。内容は(静脈の音をきいた)という裸像のモデルのドキュメンタリーでした。
彼女は肝機能障害を患い、臓器移植は免れない状況。外見の著しい変化と女性機能の喪失を怖れていました。駄目元で諏訪氏に自分の姿を絵に描いて欲しいとアポイント。受け入れた諏訪氏。映像の中で諏訪氏は彼女にどの様な表情がいいか尋ねていました。彼女は「お任せします」と。「でた!」と少し茶化すも直後に「じゃあ、怒った顔でもいいの?(お任せします)…しないけどね」と。しかしこの作品にはなんとも言えない感情の波が手の表情として現れている(表されている)気がしました。己をかきむしる様な遣る瀬無さ、恐怖。時間軸がハッキリと絵の中に閉じ込められている感覚を覚えました。職業上つい手を見てしまうのですよね。
もう一つ、私の職業にも似たものを写実という世界に感じます。コーヒーの生豆は焙煎という工程を得て初めて口に入るものが出来ます。豆に火を充てる作業は、己のイメージを珈琲に投影する作業とも言えます。自分の知っている味を写し込む。しかし写し込む作業というものは焙煎士の焙煎に至る全ての積層を投影する作業であり、焙煎士の表現方法でもあります。この作業だと(写実)にはならない。私が思う(写実的焙煎)は勝手に出てくる豆の個性をバランスを見て、何処がベストか?を探る工程であり、上がった焙煎豆に焙煎士の個性が知らずと添加されるように思えるのです。
……書きたい事は山ほどあるのですが、長くなりそうなので今日はこの辺りで。近々続きを書きます。
月のご案内に連載してもいいかも、、ですね。