給料泥棒(Wikipediaより抜粋)
【給料泥棒(きゅうりょうどろぼう)とは日本においての会社の社員ないし、使用者に雇用されている労働者を形容する言葉。俗に「給料泥棒」とされるような社員というのは、会社側は給料を支払っている社員であるというのに、その社員は会社に対して貢献をしていないということからである。怠惰であったり成果を上げられない社員を罵倒するときにこの言葉が用いられる。】
この言葉は自然発生的に経営者目線から生まれた言葉だと思います。これ、社員が使っていたらまさに植木等の映画の様で(古っ)如何ともしがたい状況となってしまいますが、最近この(給料泥棒)にもう一つ意味があるんじゃないか?と思い始めたのです。この話をする前に私の中での(給料泥棒)の定義をお話ししますと、上記Wikipediaの様に会社が支払う労働力に対して、対価以下の働きは(給料泥棒)だと思います。
しかし、日本の社会には社会貢献以上に会社貢献を求めている節があるので、一括りに提供する労働力と対価に、つまり経営者と従業員の間に行き違い、または語弊が生まれている様にも感じます。例えば会社側の間違った考え方として、会社に在籍している以上、社会人(というより会社員)としての義務を、なんなら月給払っているんだから24時間会社の事を考えとけよという、まるで借りているテナントは閉めている間も家賃が発生しているのだから24時間開けなければ損みたいな考えを求めているのではないでしょうか。だから平気でサービス残業させたり、休日出勤させたり、有給休暇なのに渋い顔されたりするのでは?と考えてしまいます。これは会社側が社員の命を消耗品、まるで消しゴムのように扱う人権無視の許されざる行為と言えます。もっとも「ブラック企業」という言葉が生まれてからは、企業名をパソコンでポンッと検索すればいろいろと判る良い時代になったとも言えますが。
(2017 11月)
ではここから視点を変化させて考えることにします。社員側から見ればどうか?会社人間、仕事人間でなければ(給料泥棒)かというと必ずしもそうだとは限らないのではないでしょうか。人生の目的や趣味があり、個人のサラリーを取得する生き方の一つ、つまり会社をお金儲けの手段と人生選択した場合。労働している時間を、生きるための時間と割り切ってお金を稼ぐ手段と考えるならば、会社に損出を出していない限り決して(給料泥棒)にはなりません。
自分の趣味や生きていくための手段として仕方がなく働く。仕事はソコソコ、求められている以上のことはしない。これに関しても損出さえ出ていなければ(給料泥棒)ではないと考えています。では給料を払う側から見たもう一つの(給料泥棒)とは何かというと、働く場所で学ばせて貰う姿勢で入社し、側で仕事を見ていたにもかかわらず何も学習しないまま、技能が活かされることがないという結果を露呈してしまった状況。これこそ(給料泥棒)と言えるのではないでしょうか。
経営側からすれば、目的と目標を持った熱心(に見える)な従業員には将来的に幸せになってもらいたいし、失敗をして欲しくない気持ちです。しかも教えながら給料を払う行為の本音は「授業料よこせ」です。しかしそうはいきませんので、互いの納得いく形での時給が決まり、それに準じて働いてもらいます。労働力を対価に教えてもらうという行為は単純に生産性を上げるだけでは全く足りません。教わった技能を生かしつつ、利益を必ず出していく存在になって始めて会社や組織に利益が出ます。最終結果が出てから判断される事ではありますが、この「意識高い系なのに学習せず時間を浪費し、貰った給料を自己投資出来なかった人間」これこそが(給料泥棒)ではないかと。
皆様はどの様に考えますか?
*給料泥棒(Wikipediaより抜粋)【概要補足】*
会社において「給料泥棒」という俗語が使用されようとも、それに対して必ずしも納得ができない場合も多々ある。というのも、給料泥棒と呼ばれた社員であっても、その社員がもらっている給料が、「自分が会社に対して貢献をしている度合いに見合っている」という場合もあるからである。だが、そのような場合でも、会社はその社員を雇用するに当たって、社員の手取り給与額の他に税金や保険料その他諸経費の支払をしているということであり、その額も合計したならば会社というのは社員一人当たりに、その社員の手取りとなる給与額の倍近くを支出しているということになるわけである。