6月初旬、大坊勝次 森光宗男 両氏の対談本「珈琲屋」が新潮社から発売されました。お二人は珈琲業界で知らぬ者はモグリと言っても良いぐらい有名な方々です。コーヒー業界に於いては、自家焙煎とネルドリップの普及に尽力されております。残念ながら2016年12月に森光宗男氏は珈琲の神様の元へ逝かれました。大坊勝次氏は2013年、ビルの取り壊しにより「大坊珈琲店」を惜しまれつつ閉店、今は全国呼ばれたところに手廻し焙煎機を持ってその魅力、技術を惜しみなく披露しておられます。今回、新潮社から販売された対談本ですが、対談本作成の話は早くから耳に入っておりました。なかなか出版社が決まらず、立ち消えの危機もあったようですが無事出版の形となりました。お二人は同じ1947年生まれ。同じ志を持ち、貫きました。私から見るお二人の印象は似て異なるというか、根底では同じで、たどり着いた着地点も似ているのですが、途中の工程に考え方の違いがあるという印象です。
人間ですので違って当然なのですが、似た者同士とは思えない。しかし筋は同じという印象です。対談はお互いがそれぞれの店を行き来し、互いの珈琲を語り尽くすと言った内容です。珈琲に対する時、普段から思っていること、聞いている音楽、読んでいる本。生活の全てが理屈と理論になり一杯の珈琲に投影される。普段から何を思い、何を見つめているのか。お二人の会話は止むことなく続いて行きます。
私は大坊勝次氏とは殆ど接点無く、上京した時、日取りと時間が合えば一人の客として大坊珈琲店に飲みに行っておりました。森光宗男氏には私がモカコーヒーに取り憑かれた時からお世話になり、イエメンとエチオピアにも同行させていただきました。なにかと引っ張って頂き、大変お世話になりました。その森光宗男氏のお店「珈琲美美」には面白いルールがあります。従業員(殆どの方が弟子志望だと思われます)が珈琲美美で働ける期間は3年と決まっています。それ以上居る事はできません。
そしてもう一つルールが「珈琲の事を聞いてはならない」というものです。普段の師が何を見、何を考え一杯の珈琲を創っているのか。これを考えながらよく見て行動しなければなりません。
(2018 7月)
流石と云いますか、珈琲美美で働いていた従業員の独立率は高く、後々有名店になっている所もあります。では、大坊勝次氏の元で働いていた従業員はどうか?私は存じ上げておりませんが、ここでチョット面白いお話をご披露いたします。確か3年前(2015年)の9月、SCAJ(日本スペシャリティコーヒー協会)開催日に森光宗男氏はエチオピアのブースにて1日のみネルドリップを提供されておりました。その時にご挨拶がてらお伺いしたのですが、そこに大坊勝次氏が現れ、少しの時間ではありますがお二人とお話が出来ました。私が丁度、従業員の働き方や考え方について、珈琲美美でのやり方(当時の私は従業員に対しての接し方を失敗していた)が良いと賛同、御意見をお伺いしている所でした。大坊勝次氏はこれを聞き、森光宗男氏とは真逆の考え方を仰りました。
大坊氏曰く「従業員は何年でもいてくれてよい。慣れてくれればくれるほど上手く動いてくれるから」と。実に印象的な事でした。私の中でこの出来事は従業員という存在の考え方に一石投じられました。それまで従業員という存在は当店にご縁があった以上、コーヒーをもっと好きになってほしいし、抽出のやり方や考え方など今後に活かせる事を教えていかなくてはいけないと思っていました。今後のコーヒー業界に小さな事から少しでも貢献できたらと妙な使命感を持っていました。しかし現実は私の考えるような世界ではありません。欲しい人間は欲するし、そうでない人間は欲さない。今の考えは、お二人の考えを混ぜて割ることにしております。
御二人は珈琲で「成功」した方々です。珈琲のみで生計を立て、長年営業されてきました。勿論全国には御二方以外にも珈琲のみで生計を立てている方は大勢いらっしゃると思います。逆にコーヒーで生計を立ててみたけれど上手くいかなかった。此方は成功した方々の何十倍もいます。では何故この御二人なのか?大坊珈琲店は営業スタイルを一切変えなかった。本来なら手廻し焙煎機はサンプルロースト用で、味見の要素が強いものです。勿論この焙煎機は営業で使える商品を作ることが出来ます。当店も2年近くサンプルロースターで焙煎したもので営業していました。しかし豆売りとなればサンプルロースターは使い物になりません。
(2018 8月)
味ではなく、焙煎できる数量が圧倒的に足りないからです。満たすためには何回も焙煎しなければなりません。珈琲屋という生き方は実に不器用な生き方でありながら自己存在意義の表現方法としてはインパクトのある生き方だと思います。(ここでご注意頂きたいのは、私のこれから書く文章での「珈琲屋」とは自家焙煎で己の味を創り、その珈琲を一杯一杯丁寧に提供し、珈琲以外のメニューが粗ない店の事であります。しかしその基準は私個人のこれまでの経験によるもので、すべての「珈琲屋」が当てはまるとは限りません。)背を丸め、珈琲の粉に語りかける様に一滴一滴湯を垂らす。提供したい味の為に効率の悪い遣り方を選び、時間を掛け、適一滴。しかし珈琲一杯の値段は他店と同じか少し高いくらい。当然、滴滴やっていると他のドリンクは出来なくなる。自分が提供したい珈琲の為に邪魔なものを一つ、また一つと削ぎ落としていく。
簡単に辿り着くであろう道よりも、少々障害があるくらいの道を敢えて選んでいく。半ば修行僧の如く禅問答の様に自身に問いかけ、否定と肯定を繰り返しながら少しずつ歩んで行く。一点を見つめ、日常を繰り返し、その一点から見出した発見は光り輝く鉱石で、磨けばもっと光るのではないかと暫し歩みを止め、鉱石を磨き始める。見つけた鉱石の色、形、同じ物は一つも無く、似ているものでも純度、硬度が違い、磨いていけば光り輝く鉱石になる。この感覚を一度味わうと「今度はもっと美しいものを」と再び歩み始める。一点のみを見つめ続け発見する喜びは新しいものに触れ、知らないことを知る喜びよりも深い事を知っている。雨が降ったり、道がぬかるんだり、そんな事は日常茶飯事。時には崖から岩が降ってきたり、道が分かれていたり、標識に誤りがあったり、行き止まりで引き返すことさえある。それでも最初に感じ、見えた光を信じて、その光を求めて歩き続ける探求者。しかしそれは決して表からは見えず、お客様から見た店の風景や店主は何時もの何食わぬ顔の日常がまるで時の止まった如く其処にある…
(2018 9月)
喫茶店でよく言われる言葉の一つに「ここは落ち着く」等、動く日常から脱却、或いは切り替える為だろうか、その様なニュアンスを話す方がいらっしゃいます。自身を一度取り戻すには、変わらぬ日常、あるべき場所が必要なのかも知れません。しかし、その場があまりに騒がしかったりと落ち着かぬ場所だとどうか?「落ち着く」とは言ってもらえないかと思います。店に滞在する意味も変わってくるでしょう。店主からすれば(騒がしい)店であれば、その分売上も良い筈ですので、メニューも選択が沢山の方が利用できる客層に幅広くサポートするでしょうし、軽食だけでなく食事が出来たら良いでしょう。お酒だって沢山種類があれば尚良い。ターゲットも広くなりますから口コミもより多く、お客さんも増えて行く事でしょう。
しかし皮肉な事に、本当に売りたい物が素直に売れる事など殆どありません。その隣の物がよく売れたりするのです。殆どの真面な商売人なら顧客のニーズを掴み、売れる商品を売れる間に捌き、次のトレンドにシフトして行きます。如何に人を集め、商品にお金を使って頂けるか?飽きが来ないよう新商品や新メニューは定期的に更新。スタッフ個人個人が専門的にならない様に配慮し、短時間で提供できる様努力を重ねます。オーナーが歳を重ねれば尚更で、自分が居なくても廻る組織作りは経営者の課題でありながら目標だと思います。
わかっている。そんな事は算盤勘定がニガテでも何年か店を構えれば嫌でもわかってくる事です。生活あればこその商売です。家庭が破綻したり、身体を壊したりしては商売など出来もしません。生活基盤を確保する。つまり売上がなくては生きていけません。売り上げありきという事は如何に利益を上げて行くことかという事です。つまり、少々嫌な事や、意に反することでも黙ってお金に変えていかなければなりません。しかし、珈琲に取り憑かれた「珈琲屋」という人種は、売上が上がる度に意に反するものを一つ、また一つと削っていくのです。普段からドリップの一滴を見つめ続けているせいか、二滴増えたら一滴減らす。そんな事を平気で行うのです。商売人で有りながらやりたい事の為、仕方がないので商売という形をとっているだけで、ただひたすらに美味しい珈琲とは何か?真に美味しいものが提供できないか?だけを考える人種なのです。
珈琲に取り憑かれた者のしからしむるところなのです。