この場所に移転してきてもうすぐ4年。移転前を知らない方もいらっしゃると思いますので今回のモナモナムールは当店の黎明期に触れます。
オープン当時は珈琲をメインとしていましたが、スタイルは「カフェ」。12時から24時まで開いている。珈琲あり、ジュースあり、ご飯あり、アルコールありのお店でした。
オープン当初は「自家焙煎まではちょっと……」と思っており、珈琲の事も手探りで勉強していました。珈琲関連の書籍は今ほど充実してなく、どんな本を読めばいいのか、どこから勉強すればいいのか、どうすれば珈琲の事が判るのか?多くの謎と店の営業が平行していました。勉強しながら得た知識でお客さんと対話する。対話の疑問から検証していく…そんな毎日でした。当時は抽出方法もペーパードリップで3杯くらいを同時抽出していた時期もあります。多少腕に自信がついていい気になっていた若かりしあの頃です。いやあ、勢いって凄いです。
そうこうしているウチにやがて、自分が使っている(購入している)豆に疑問を持ち始めました。得てきた知識と実際に接している豆とにギャップを感じ始めていました。この頃から本格的に自家焙煎を意識し始めたように思います。疑問を抱えながらの営業中にある時、ある方から「福岡に珈琲美美というお店がある。一度行ってみると良い」とアドバイスを受け、タイミング良く日にちが取れたので福岡に行って珈琲を頂きました。
……私はかつて珈琲で2度、鈍器で殴られたような衝撃を覚えています。その一杯目は珈琲美美で頂いた「イブラヒムモカ」。なんともいえない奥ゆかしい味わい。主張してくるのに優しく消えていく後味。甘み。珈琲にこんな深い味覚と味わいがあるなんて…驚愕の一杯でした。
その頃から珈琲にふれあえる本当の喜びを感じるようになったと思います。と同時に使っていた豆への疑問は不満へと変化し始めました。「もっとこうなるんじゃないか?」「もっとこんな味わいにして欲しい」結局、私の言葉と珈琲のイメージは焙煎者には伝えきれなかったように思えます。「自分で豆を焙煎したなら良くも悪くも納得できる」「抽出だけでは判らないことが判るんじゃあないのか?」
この頃、自家焙煎の扉の前で立ち尽くしていた私の背中を押す出来事が訪れます。皆様は珈琲の御三家をご存じでしょうか?名人と呼ばれる3人。銀座「カフェ・ド・ランブル」の関口一郎氏、「バッハコーヒー」の田口護氏、そして吉祥寺「もか」標交紀氏。
「もか」は福岡「珈琲美美」森光氏が独立される前に修行していたお店で、数々の逸話がある超有名店。その標交紀氏に直接お話を伺いに行ったときのことです。いろんな珈琲の話をお伺いした後に、悩める私に標氏はこう言いました。「豆を焙煎しなくては珈琲の事は語れない」「他人の褌で相撲をとるな」その時の言葉は私の一生の指針となり、自家焙煎への決意は揺るぎないものとなりました。(勘違いされないために補足いたしますが、私は標氏に珈琲についてのお話を伺いに行きました。標氏は「君がしたいことは何だね」「珈琲です」「だったら他人の旗ではなく自分の旗を振りなさい」と言われたわけで、別に豆を買っている喫茶店を否定するものではありません)そしてここで2発目の鈍器的珈琲にも出会います。
その名は「サン・ハラールモカ」。「もか」と刻印された麻袋に積められて輸入される「もか」の為だけの特定農園スペリオールコーヒー。なめらかな口当たり、強い甘み、ふわりと香りだけを残し流れていく喉越し、余韻。自分で焙煎する事が難しかった時代に自家焙煎の道に踏み切り、珈琲の道を歩んできた標氏の存在と優しさがその珈琲に宿っているような気がしました。
そこから豆との格闘の日々が始まりました。最初は自分の焙煎した珈琲といつもの豆を平行して使っていました。勿論、最初からうまく行くわけもなく、今に思えば随分と独りよがりなひどい珈琲だったように思います。実はここが非常に難しい問題で、自分だけが満足する味を造り上げるのはカンタンなのです。自分だけの方式と公式で突き進めばいいだけだから。これがいかに危険なことか、この時期に学んだように思います。
そんな日々の中、もう一つの転機が訪れます。あこがれのモカへの道、イエメン・エチオピアへの旅行です。私はこの旅がきっかけで焙煎機を譲っていただきました。のちに私が(一方的に)師事することになる岐阜「待夢珈琲店」今井氏との出会いです。私が今使っている焙煎機(現在は使っていません)は今井氏が長年使用していたもので、富士珈琲機器の赤外線付き7ポンド焙煎機です。この焙煎機に付いている赤外線は元は標交紀氏の師匠、襟立氏が考案とされている代物で、標氏も長年使っていた焙煎機と同じ型。当時、私のあこがれの焙煎機でした。現在、このメーカーはありません。中古でしか手には入らない幻の焙煎機です。
そして、イブラヒムモカの取り扱いを開始することが出来始めました。後にサン・ハラールモカと同じプリパレーション、当店ではメニューに「ハラール・ハラワチャ」として扱い開始始めることが出来るようになったのです。まさに夢のようです。ちょうどこの場所に移転する直前頃、メニューにはイエメンモカ3種類、エチオピアモカ3種類とまさにモカ専門店。高品質モカが目白押しでした。
そして移転。今に至るというわけです。
えっ、今モカの種類が少ないのは何故かって?次回より当店の看板メニュー「モカ」のお話をしていこうと思います。
まずは前回の回答から…。なぜ6種類あったモカが3種類になったか?
1)ここ数年のバニーマタルは品質が低下。ムニールモカの方が断然良いので取り扱いを一時停止。
2)「ハラール・ハラワチャ」「ジェルジェルツーアビシニカ」この2つのエチオピアモカは2009年に始まったECX(Ethiopia Commondity Exchange)によって単一農園、単一種での取引が出来なくなりました。ほぼ同時期、エチオピアの珈琲豆から残留農薬が見つかり日本への輸出がストップするという事態が起こりました。記憶に新しいと思いますが、モカが日本から消えてしまった年でもあります。
…イエメン、エチオピア両国のモカは世界の珈琲の中でも特徴的な風味、味わいを持ち合わせています。私個人の問題だけでなく、どうしようもない、個人ではどうにもならない「国家」の問題を感じずにはいられませんでした。
6種類が3種類になった理由は「泣く泣くメニューから消えた」が正解です。
さて、私が魅了された珈琲、モカ。優しく複雑な味わい、コク。どこか女性的なこの珈琲の産地はアラビア半島の南、イエメンとその対岸であるアフリカ大陸、エチオピアで産出されるもっとも原種に近く、そして人が初めて珈琲を農作物として栽培始めた珈琲です。最近の研究で、世界の珈琲のDNAはエチオピアの東、ハラール地方の珈琲にたどり着くそうです。では、珈琲の母はエチオピアなのか?というとここがちょっと複雑。
イエメンにはかつて国際貿易商品として珈琲を外国へ出荷していました。紅海に面した港町「モカ港」。ここから出荷された珈琲はすべて「モカ」の名称で呼ばれていました。やがてモカコーヒーは人々の心をつかみ、生産量と消費量が吊り合わなくなってきたとき、対岸のエチオピアで生産を開始し始めました。アラビヤの商人がハラールの現地人「オロモ族」に珈琲生産を教えたのが最初と言われています。エチオピアで栽培された珈琲が対岸のイエメンに渡りモカの港から出荷される。その名残が二つの国の珈琲を「モカ」と呼ぶようになった謂われです。名前が同じ「モカ」でも味わいは違います。エチオピアのモカはカラリとしたさわやかな味わいと酸味が特徴。一方、イエメンモカはしっとりとした上質の麝香を思わせる香り、そしてなによりもコクを感じさせる複雑な味わいが特徴ではないでしょうか。共通するのは味わいの甘み。独特のあの甘みと香りはモカコーヒー唯一の特徴といえます。
このエチオピアとイエメンのモカにはそれぞれの国で珈琲発見伝承があります。エチオピアでの発見伝説はレバノン人の言語学者ファウスト・ナイロニーの「眠りを知らない修道院」が有名で、(山羊使いカルディー)がある日、自分の飼っている山羊が赤い木の実を食べると夜になっても眠らず騒ぐので、寺院の修道士たちに知らました。修道士達は何か特効のある草木を食べたに違いないと周辺を探すと食いあらされた木の実が見つかります。修道士達はこの実をためし、それが眠気を払うものと気がつきます。それから夜通しの祈祷の間、眠ることなく勤めることが出来ました。この赤い木の実がエチオピアコーヒーの発見。というお話とイエメンの伝承にある、アブダル・カディの「コーヒー由来書」に記された珈琲発見伝説があります。その話とは…ウーサブの山奥に流刑になった僧侶シェイク・オマールが師であるアル・シャージリの霊に導かれて発見した赤い木の実を煮出すと香りの良い飲み物になることを知り、薬効に気がつきます。その実をモカに持ち帰り、煮だして信者の病気を治したことからモカの長官は彼を許し、聖人として敬った。という2つの伝承があります。
ではここで伝承について検証してみたいと思います。エチオピアでは確かに山羊や猿が珈琲の実を食べることはあるようです。しかし、ファウスト・ナイロニーは著書「眠りを知らない修道院」でカルディをエチオピアのアラブ人と書いています。アラブの商人が珈琲を神秘的な飲み物にするための細工?のようにも捉えることが出来ます。
イエメンの伝承はウーサブの位置がキーポイントとなります。ウーサブはモカ港より北方約100kmに位置します。その半分の距離にホダインというコーヒー生産地があります。(現在でも珈琲栽培が行われています)ウーサブはその昔、珈琲を栽培していたのですが、現在は生産をバナナなどの食物に切り替えており、ウーサブよりもう少し奥にいったところでは若干珈琲栽培が行われているようです。(2005年段階)実際はホダインより出荷した珈琲に付加価値をつけるために商人が広めた話ではないか?という説もあります。事実、イエメンではこの民間伝承を残していない。しかしモカ港の聖人アル・シャージリは実在の人物で13世紀、スーフィの指導者でした。真っ白い立派なモスクに今でも奉られています。…そうです、この伝承で重要なポイントは神秘性。商人達がモカコーヒーを販売するための作り話?とも解釈できます。しかし全てが作り話かというとそうでもありません。アブダル・カディの「コーヒー由来書」にはもう一つの面白い記述があります。1454年、アデンのイスラム宗教学者ザブハニーがコーヒー飲用を一般に公開したという話で、この人物がアビシニア(現在のエチオピア)を旅したとき、珈琲の効能を知りました。イエメンに帰ると病気になった彼は珈琲を思いだし、試したところ、健康を回復したどころか、睡魔を追い払うことまでもわかってしまった。そこで夜の祈祷に集中できるよう飲用をすすめた。という話です。当時の珈琲がどのようなものであったか?というのは殻(ギシル)と果肉が発酵したお酒のようなもの。か、珈琲の果実をつぶして煎じて飲んだ。と考えられています。ちなみにギシルとは、今でもアラブ世界では飲まれている珈琲です。イエメンでは珈琲は焙煎した珈琲豆(種)の粉を煮だして作る「ブン」という飲み物で、一般的にはターキッシュコーヒーと呼ばれているものと、コーヒーの皮殻(皮殻に付着した果肉も含む)を煮だした「ギシル」があります。イエメンではこのギシルが一般的に飲まれており、歴史的にはギシルの飲用文化はブンよりも古くからあったようです。上質なギシルを作るには完熟した赤いコーヒーの実だけを一粒一粒丁寧に摘み、天日乾燥で1〜2週間じっくりと乾かし、その後石臼歯の脱穀機で豆(ブン)と皮殻(ギシル)に脱穀して出来上がりです。石臼歯の脱穀機はコーヒー豆が欠けやすいし、石臼歯の破片(イエメンコーヒーには時々白い石の破片が混じる)が混入しやすい、しかも時間がかかり非効率です。では何故石臼なのか?…そうです。イエメンでは上質のギシルを取るために石臼を使うのです。機械で脱穀すると高速回転の金属の歯はギシルを粉々にしてしまいます。イエメンにとってギシルこそが普段飲みのコーヒーでブンはあまり飲みません。豆(ブン)を輸出に使って残りの皮殻(ギシル)を飲んでるわけではないのです。なぜならギシルは保存に向きません。鮮度が要求される飲み物なのです。一方ブンは豆を煎らなければ保存は数年可能です。ここで飲み分けが出来ました。ギシルコーヒーは首都もしくはギシルが傷まない距離までで飲まれ、ブンはベドウィン(砂漠の民)が飲んでいた。ということです。現在、世界でギシルコーヒーを飲んでいるのはイエメンとエチオピアの一部(主にイスラム教地区)の人たちです。
ギシルコーヒーの作り方ですが、水を入れたイエメン式ポットに焙煎したギシル、ジンジャー、カルダモン、クローブ、シナモンなどの香料を加えます。砂糖をたっぷり入れて火にかけ煮だし、数分経ったら茶こしで濾して出来上がりです。味は葛根湯と例える方もいらっしゃいますが、独特の香味とスパイシイな味わいはジンジャーの効用もあるのか、体がポカポカと暖まるような感じです。山岳地帯で暮らすイエメン人は年間を通して朝晩の冷え込みがあります。朝のお祈り前やお祈り後に「ホッ」とギシルを飲めばさぞかし美味しいだろう。と現地の早朝に飲んだギシルからイエメンの飲用文化(ブンよりギシルが飲まれている訳)が見えてきます。
このギシル珈琲が飲まれているのは世界では2つの国しかありません。イエメンとエチオピアの一部の地域(東部ハラールのムスリムが住む)です。後、エチオピアではコーヒーノキの葉を乾燥させ、煎じたお茶「クティ(またはコティー)」や、豆を煎り、細かい粉にしたものと蜂蜜、バターを練り込んだ食べ方なども風習として残っています。
さて、実際の所。日本人を魅了して止まないモカコーヒーとは?そしてその味の正体とは何なのでしょうか?最初の方で「イエメンとエチオピア、同じ「モカ」でも味わいは違います。エチオピアのモカはカラリとしたさわやかな味わいと酸味が特徴。一方、イエメンモカはしっとりとした上質の麝香を思わせる香り、そしてなによりもコクを感じさせる複雑な味わいが特徴ではないでしょうか。共通するのは味わいの甘み。独特のあの甘みと香りはモカコーヒー唯一の特徴といえます。」と書きましたが、イエメンモカとエチオピアモカの決定的な味の境目(特徴)は「複雑さ」にあると思います。モカコーヒーを植物学的分類から見てみると(コフィア属)(エウコフィア属5節)(エリトロコフィア節)(アラビカ種)(モカ)となります。コーヒーで一般によく知られているのは(アラビカ種)(カネフォラ種)(リベリカ種)の3つ。このうち(リベリカ種)は流通が皆無ですので除外すると(アラビカ種)と(カネフォラ種)ですが、(カネフォラ種)は一般的に工業用コーヒー … 缶コーヒー(最近ではアラビカ種を使う傾向にある)や香料(コーヒー香料は人工的に作れないので香料にする場合実際にコーヒーを使います。)などに使用されます。特徴は一年で数回実を付けるので年間収穫量が多い。特有の強い香りを持ち、病害虫、暑さに強く土地を選びません。一方(アラビカ種)は病害虫に弱く、土壌を選びます。暑さ、寒さに弱いので栽培に向く地域が限定されてしまいます。しかし味わいがよいので、珈琲としての主流はこちらです。
さて、我らが「モカ」は植物学的分類上どこにいるのかというと(アラビカ種)から「ティピカ」と「モカ」に分かれます「ティピカ」は珈琲の原種であり、その始まりはイエメンから1699年にオランダの東インド会社からインドネシアのジャワ島に運ばれて、そこで栽培に成功しています。このコーヒーの種子から育てた数本の木が1706年、アムステルダムの植物園に送られて栽培。その苗が1713年、フランスのルイ14世に送られています。1720年頃、フランス人将校クリューはパリの植物園の苗木をマルティニーク島に持ち出し、航海の苦難に耐えた数株の栽培に成功。これが中南米のコーヒーのルーツです。このルートで広まったのがティピカ種。そしてもう一つのルートがイエメンからフランス人によってブルボン島(現在のレユニオン島…数年前よりUCCが売り出しているブルボンポワントゥはこれにあたります)に導入されたティピカから突然変異を起こしたものがその後、ケニア・タンザニアに移植されて後に中南米に導入されます。このルートが「ブルボン・ロンド(ブルボン)」です。その他にティピカからの突然変異種では「マラゴジッペ」。突然変異同士を交配させた「パカマラ」「カトゥアイ」。自然交配して出来上がった「ティモール」や突然変異との自然交配「モンドノーボ」などが有名です。どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。そして「モカ」は「ティピカ」と並ぶ原種です。まずはこれがほかの珈琲との味の違いの一つです。
イエメンとエチオピアの珈琲は「モカ種」と呼ばれています。現地でコーヒーノキを見るかぎり、ティピカの特徴をふまえた木です。DNA鑑定したわけではないので完璧に「そうだ!」と言い切れませんが、珈琲輸出の歴史や産地の場所などを考えると「モカ種」と言っても問題はないと思います。しかし、同じ「モカ種」でも味が違うのは(他の国にも同様のことが言えますが)生産地の気候や土の状態が大きく関与します。ワインで言うところの「テロワール」が珈琲にも大きく関与します。つまり、同じ産地の隣の畑ではすでに味が違うものと考えなければなりません。そして、収穫から輸出までの行程も味に大きく関与してきます。エチオピアコーヒーがクリーンな味わいなのはその殆どが「水洗式」と呼ばれる作業工程によるものといえます。エチオピアコーヒーの水洗式の代表的な産地は南に位置するシダモエリアが有名です。このエリアでの水洗式コーヒーの処理方法ですが、まず収穫した赤い実を大量の水と一緒に発酵漕に流します。この時に完熟した赤い実は水槽に沈み、未完熟の実は軽いため水に浮き外に流されていきます。発酵漕は何段階かに分かれおり、身の重さによって比重で選別されるように工夫されています。それらの実を約24時間、水の中で発酵を待ちます(国によって発酵時間は変化します)。発酵した果肉はシュミレージと呼ばれる種子とパーチメント(外皮)と果肉の間にあるヌメリをも除去しやすくします。発酵後、果肉とパーチメント(外皮)を含む種子部分とを脱穀、外皮付きの状態でアフリカンベッドと呼ばれる風通しの良い棚田に並べられ、乾燥を待ちます。現在、エチオピアではこの状態(パーチメント付き珈琲豆)で農家から出荷、アディスアベバの研究所で検査を受けた後、オークションにかけられて輸出という流れになっています。水洗式のコーヒーは精製までの処理が早く、珈琲豆の水分含有量も多いため、みずみずしく香りあるコーヒーになります。
一方、ハラール(エチオピアの東)の一部の地域で行われる昔ながらの農方は樹上完熟と呼ばれ、樹の上でコーヒーの実を黒く乾燥するまで置いておくという農方で、この方法は雨季と乾季がはっきりしている地域でなければ出来ません。もし、乾燥の途中、雨が降ってしまうと実は発酵を始めてしまいます。その発酵臭はコーヒーにとって好ましいものとは言えません。これは水洗式のコーヒーにも言えますが、発酵に不備があるとこの臭いが付着します。そして、樹上完熟のもう一つの重要な要素が生産量が増やせないということです。樹上完熟は土の養分を大量に必要とします。つまり、農地が豊かでなければなりません。自然のままの収穫量でなければたちまち樹は実を付けなくなってしまいます。この樹上完熟で収穫されたコーヒーは甘い味わいと独特な香りがあります。
イエメンでは水洗式のコーヒーはありません。天日乾燥で行う精製法方のみです。コーヒーの実は赤くなったもののみを収穫。家のテラスや屋上のコンクリート部分に並べ、一週間から10日乾燥させます。黒く乾燥した珈琲の実は石臼の脱穀機でギシル(乾燥した果肉部分)とブン(コーヒー豆)に分けられます。前述した通り、イエメン人にとってのコーヒーはギシルですので、脱穀の際にはギシルが砕けないように丁寧に脱穀されます。イエメンのコーヒーは完全有機農方です。ワディと呼ばれる枯れ川は雨期になると山肌のミネラルを含んだ水の流れる川となります。雨期が終わり、川底にはミネラルの多く含んだ土が残ります。コレが肥料。そして彼らは農薬を使いません。なぜなら農薬のかかったギシルなんて飲みたくないからです。食文化や国土、環境がコーヒーを作るのです。
イエメンモカ、エチオピアモカ(ハラールの一部地域に限る)にある独特の味の正体ですが、石臼で脱穀するときに、乾燥した果肉はブンに付着します。ハラールでの脱穀方法でも杵と臼で完熟豆を脱穀します。どことなく共通の味わいを感じるのは、乾燥した果肉の味わいだと考えられます。これがモカコーヒー独特の味と香味の正体。
この味覚や香りが発酵臭であるという意見もあります。たしかにそう感じるものもあります。が、発酵臭とモカ香を混同されている方もいらっしゃいます。否定的意見だけではもったいない、日本人の味覚に適した味わいであるというのも事実です。