度々此方のコラムやお客様との会話で出てくる(中庸)という言葉。私は咖啡の味覚は中庸であるべきだと考えています。味覚に対して(中庸)と云うのは非常に難易度の高い事かもしれませんが、出来ればあるべきだと考えています。ニンジン嫌いな子でも「このニンジンなら食べれる」という類い。(旨い)の本質を抑えた味覚の部分、振り幅の偏りが極端で無い食品。これは理想的な味覚の形なのではないかと考えています。
生物分類のリンネ式階級分類における基本的階級的にコーヒーを大きく括ると「お茶目」→「コーヒー科」(いやこれ適当に言ってますので本気にしないように)の部類に含まれると思います。しかしその他の「科」、例えば「紅茶科」とか「緑茶科」とか比べるとコーヒーは異質の味覚と味わいがあると思います。そこに長年疑問を持っていました。括りは「お茶」の筈なのに何故これほどまでに違いがあるのか?そもそもこの(違い)がコーヒーに対する誤解の原因なのではないだろうか? そう考える様になりました。この辺りの考え方は前回のコラム「ダイヤモンドのコーヒー」で直接的ではありませんが、大きく触れました。
コーヒーの味覚で第一に思い浮かぶであろう代表的な感覚は(苦味)かと思います。確かに黒く炒ったコーヒーはニガい。アレはそもそも炭化(ストレッカー反応によるキャラメル化)した苦味なので咖啡の味覚として正しいのか?という疑問。実際にコーヒーの成分は酸類が多く含まれ、本来なら(酸味)という味覚が代表的になってもおかしく無い筈なんですね。もっとも最近のコーヒー、サードウェーブ以降は酸味を主体としたコーヒーが多く出回り、お客様からも「酸味のあるコーヒーは苦手……」といった意見も聞かれるので、一概にもコーヒーの味覚が第一に(苦味)という方も少なくなってきたかも知れませんが、我々の世代は最初に連想する味覚が(苦味)ではないでしょうか。
(2021.10)
問題はこの苦味。これが「お茶目」から続く分類から異端となり、なんなら「コーヒー目」と分かれても良さそうな雰囲気すら醸し出しています。(いやしかし、そうじゃないだろう……)コーヒーも飲む事でコミニケーションを円滑にしたり、リラックスしたり、喉を潤したり、甘い食べ物の友達だったりする訳ですから当然ながら(お茶)だろう。この発想が私のコーヒーに対する味覚へ基本理念になっています。ならばその(お茶)たるコーヒーはどう有るべきなのか? その時に出会った言葉が(中庸)なのです。そこで中庸の一般的な意味を調べると……
中庸(ちゅうよう)
○極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。
○かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。
おおよそ一般的にこの様な意味で使われている言葉かと思います。しかし、(普通)とは少し違った感じがする(中庸)。私は最初にこの言葉に触れた時、なにかしら得も言われぬ気分になりました。それもその筈、もともと「中庸」とは儒教用語で私達が普段用いている意味合いと少し違う。だから(普通)とは違う(中庸)という言葉が在るのだと。その事を知ったのは(中庸)という単語に触れて少し時間が経った頃でしたが、今回のコラムはこの(中庸)の話、そして私が考える(中庸の咖啡)の話をしていきたいと思います。
儒教用語である「中庸」とは、孔子を始祖とする「儒教」において徳の概念を表す言葉です。儒学を学ぶときの四書として構成された『論語』『大学』『中庸』『孟子』の中の一つで、最後に学ぶべき書とされています。司馬遷の『史記』では『中庸』は孔子の孫である子思(しし)によって作成されたとされ、これが通説となっています。
(2021.11)
孔子はその思想を体系的に語ることはしませんでした。子思は孔子の教えを理論的にまとめ、学問として体系化したと言われているようですが、戦国時代の無名の儒家の著作であるという説や、『大学』同様『子思子』の一篇だったのではないかという説もあり、成立及び作者は諸説が存在しているようです。
『論語』からの出典「過ぎたるは猶及ばざるが如し」。この諺の意味は「極端に多すぎることは少なすぎることと同じくらいによくない」という事ですが、この言葉も孔子が中庸の徳を説いた言葉として知られています。その事から「中庸」の意味はかたよることのない中の道、「中」をもって道をなすと言われています。
ここで勘違いされるのが「中庸」の『中』とは、偏らない、しかし、決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではない。という事です。その混同される例として「中途半端」や「50対50の真ん中」と中間、平均値、足して2で割るというものでなく、常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものである。という事です。
『庸』については、朱子は「庸、平常也」として、『庸』を「平常」と解釈しており、鄭玄は「・・・庸猶常也言徳常行也言常謹也」として『庸』を「常」と解釈。『庸』が「常」という意味を含んでいることは二人とも指摘しています。現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もあるようで、つまり、中の道を「用いる」という意味だと。
孔子の言葉に「中庸の徳たるや、それ至れるかな」があります。どちらにも片寄らない中庸の道は徳の最高指標である、ということを述べています。「具体的にどのような道が中庸の道なのか」については、孔子の言葉を解釈し、具体的な行動に落とし込んでゆく必要があります。
(2021.12)
解釈の仕方には幅があるため、経典が難解だとされる原因でもありますが、逆にその幅があることが、教えの普遍性を保っているものであるともいえます。また、その意味を考えることが思考の訓練であり、学びそのものでもあるといえるのでしょう。完全に理解するには常日頃の自身の行動や言動を照らし合わせながら生きる必要が在るといえます。
そして「中庸」の意義は「天命を知る」という考え方があります。『中庸』の最初には、まず天命について書かれた一節がありますので、その書き下し文と解説を紹介します。
“『天の命これを性といい、性にしたがうこれを道といい、道を修むるこれを教えという』天が人に授けたものが人の本性であり、その本性に自然に従うことを人の道という。人が歩まねばならない道を修めるのが教育である。”
人が人として完成するためには、天から与えられた性を育てて向上させる必要があります。道とは目標に到達するための歩みの過程のことです。道を外れると、性を発揮することができません。その道を学問によって学ぶのです。ということを言っています。
『中庸』はこのように天命に従う人の道を説いており、中庸を学ぶ意義は天命を知ることであるといえます。なぜなら、天命、つまり自分が生まれながらにして与えられている生きる意味を知らなければ、進むべき道もつかむことはできず、踏み外してしまうからです。
『天命を知れば道がひらける』孔子は、自分自身を知ることの大切さを次のように説いています。
(2022.1)
“『ただ天下の至誠のみ、よくその性をつくすことを為す。よく人の性をつくせば、すなわちよく物の性をつくす』…… もっとも至誠のある人のみが、自分がどのような人間であるのかを知っている。”
自分の個性を知れば、他人のこともよくわかり、それを発揮させようとする。そうすると、万物の性もよくわかるようになる。
ここでいう「至誠のある人」とは、儒教がめざす最も完成された人である「聖人」を指します。「誠」も中庸の哲学の根幹に「誠」という概念があります。「誠」とは、自分にとっても、他人にとっても、嘘偽りのない心、つまり「真心」のことです。孔子は、嘘偽りのない心こそが天の道であると説いています。それでは誠について書かれた次の句を紹介します。
“『誠は天の道なり。これを誠にするは、人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得、従容(しょうよう)として道に中るは聖人なり。これを誠にするは、善をえらびて固くこれを執る者なり』…… 誠というものは天の道である。天の道を素直に受けるのが人の道である。真に誠の人は、特に勉強したり思索したりしなくても正道を得ることができる。ゆったりと構えて道をすすむのが聖人というものだ。誠の人となろうとする者は、善の道を選んで、それを固く守るものである。
この「従容として道に中るは聖人なり」の境地を表したのが、『論語』にある孔子の有名な言葉「七十にして心の欲するところに従えどものりをこえず」なのです。孔子は十五歳のときに立派な人間になることを決意して学問を始め、七十歳にしてようやく、自分の思うままに言動しても道理に背かないものになった、と言っています。
(2022.2)
何処かで聞いた事があると思いますが、孔子が晩年に振り返って言った言葉、『論語・為政』の一説「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)」とあるのに基づきます。
このように、自分の思うままにふるまっても道徳を外れることがない、自由な境地を獲得することが、『中庸』を学ぶ目的であるといえます。ここで『中庸』に書かれた倫理の教えを書き下し文と解説文で紹介します。どのような生き方が「中庸」であるのかが、具体的に示されています。
○ 和すれどもしかも流せず
人々と調和を保ちながらも、世間一般の風潮に流されないことが大切だ。
○ 人をもって人を治む
人間の道をもって人間を治めることが最上の政治だ。
○ 遠きに行くには必ずちかきよりす
遠いところに行こうとするには、必ず近いところから第一歩をはじめることが大切だ。
○ 高明を極めて中庸に道(よ)る
高く明らかな学問や行為を極めたとき、それを実行したり発表したりするには平凡な形がよい。
(2022.3)
○ 愚にして自ら用うることを好む
愚かなものは自分の意見を強く主張する。そのような人間には災いがその身に及ぶものだ。
○ 己を正しくして人に求めざれば、則ち怨み無し
自分自身を正しくして人に求めることをしなければ、怨むこともない。
○ 上天のことは声もなく臭いもなし
天の仕事には言葉も姿もないが、その無為の中で大きな仕事をしている。人もそれにのっとるべきだ。
それからこの様にも言われています。 “中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。”
生涯に亘り、常に自分を見つめ続け生きていく。中庸を会得するためには常に中庸である事を意識した上で最終的に辿り着ける境地なのかも知れません。
私が咖啡の目標である味の(中庸)を語るとき、最後に必ずこう言います。(私の作る味のテーマとして中庸でありたいと思っていますが、生涯においてその領域に辿り着くかどうかは分かりません)と。これ、今現在、全力で中庸を目指した味づくりをしているつもりですが、今が完璧と思っていませんし、最後に辿り着けるか? 全くの本心で本当に分からないのです。咖啡業を引退した時、過去を振り返り、納得すれば私にとっての(中庸)が補完出来たことになりますが、人から見てそれが(中庸)とは限らない。地獄の禅問答状態であります。
(2022.4)
心が変われば行動が変わる。当然ながら意識が変われば出力されるものは何らかの影響を受け、如実にその結果たるものになる筈です。普段の生き方を律するに簡単ではあるが実は難しい。むしろ極振りする方が楽なのかも知れません。こればかりは性格も関与しますね。だから商売人の方で他業種事業、多店舗展開出来る方なんて尊敬します。私はとてもじゃないけどそんな事は出来ない。器用に振る舞えたり、いろいろな顔を持てることに羨ましさを覚えます。私は結果として珈琲以外を切り飛ばしてきました。店を広げるつもりも多店舗展開するつもりも(いまのところ)ありません。両の手を広げ届くところまでしか守備範囲がないと知ったので出来ません。
吾唯足知(われただたるをしる)……この言葉も実は中庸を語る上で必要に思えるのです。此方は老子の言葉とされていますが、仏教の教えが由来と言われています。『中庸』に書かれた倫理の教えを書き下し文と解説文を先に紹介いたしましたが、教えは違えども人の教えとして似た言葉がある事に共感を覚えます。吾唯足知(われただたるをしる)の意味は「内的な可能性や現状の成果に感謝をすること」です。現状に感謝をするということは非常に大切なことです。何故なら、感謝なしに満足を得ることはできないからです。そして感謝を意識することで、満足を得られるようにもなるので、「内的な可能性や現状の成果に感謝をすること」は重要です。
(完成していない)は当たり前。完成してしまう事なく続き、引き継がれていく。間違いなく人間の理で、技術者なら尚の事日々接し続ける問題かと思います。しかしながら、だからと言って諦めたり遣り切っていないのにバトンを放り投げるのは折角生きているのに勿体無い気がします。これからも私は、足掻き、踠き、悶え、併しながら平然と湖面を漂う鳥の様に『中庸』を模索、探求した咖啡が最後に提供出来たら、私なりのゴールを迎えることが出来るなら満ち足りた人生だったと自負して死んでいきたいと思っています。
……でもやっぱりお金は欲しいなぁ。